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「……いつから気づいてたんですか、僕が伊織の兄だってこと」
「登山届に書いてあったニコの字、どこかで見た気がしたんだ。でもはっきりとは思い出せなかった」
「そんなに前から?」
「だから提出箱に入れずに持ち帰ってきた。それを藤堂に見せて卒業生の名簿を調べてもらったんだ」
さっき会ったばかりの藤堂先生と、そんなやり取りがあったなんて。ニコに興味津々で話しかけてきた彼の態度が腑に落ちた。それに先生が学校関係者に頼んでまで自分の過去を知りたがっていたことに、驚きを隠せなかった。
先生はハザードランプのスイッチを切った。ひんやりとした深夜の空気が、肩に重くのしかかってくるみたいだった。
「先生……すいませんでした」
「どうして謝るの?」
「僕は、伊織のふりをして日記を書いてたんですよ? でもとっくに先生は気づいてたでしょ、日記を書いてたのが伊織じゃないってことに」
「もちろん分かってたよ。文字も内容も伊織の書くような文章じゃなかった」
「だけど先生は欠かさず返事をくれた……」
交換日記だけは、弟のランドセルに毎日忘れずに入っていた。教科書なんかは全部学校に置きっぱなしなのに。気になって伊織にたずねたことがあった。
先生は帰りの会で日記を返却するとき、ひとりづつ席をまわって渡すのだという。伊織の席まで来ると、ランドセルの中に日記を入れて「頼んだよ」と声をかける。伊織は無視して返事もしなかったらしい。
先生は気づいていたんだ。日記の相手が伊織じゃないことに。それなのに先生は伊織を責めることもなく、丁寧に、時に淡々と返事をくれた。
「あの頃もね、日記の相手が誰なのか知りたくなってさ、伊織の家庭調査票を調べたんだ。伊織には兄がいた。高校生で、光っていう名前だって分かった」
「……先生は僕の名前も、高校生だってことも知ってたんですね」
先生は肩をすくめるみたいにうなずいて、シートに深くもたれた。
「でも、ニコに初めて会った時はまったく気づかなかった。苗字も違うし、ひかるって読むと思ってたから、それに君は伊織には全く似てないし」
「弟とは父親が違うんです。母は伊織の父親と正式に離婚して。僕は母の旧姓に戻したんです」
「ねぇ、交換日記してたのって、ニコが高校生の時の話だよね? 何年前?」
「高校に入学してすぐ、4月の終わり頃でした。今から……7年前のことです」
「7年前? そんな前からニコはずっと――――」
(僕のことが好きだったの?)
そう、心の声が聞こえた気がして、ニコはこくりとうなずいた。
「高校に入った頃、なにもかも嫌になっていました。話を聞いてくれたのは先生だけで。もう一度前に進もうと、勇気をくれたのは先生です」
「他愛のないことしか書けなかったはずだよ? あのクラスは毎日戦争みたいだったから」
「僕が、食欲がないって書いた時には、先生は消化のいいものを食べましょうって返事をくれました。うどん、卵料理、バナナ、お粥……」
「そんなこと書いたっけ?」
先生は信じてなさそうな声で笑った。
「その後、先生に甘い物好きかって聞かれて。炊飯器で作れるケーキの作り方を教えてくれましたよね」
「……うっすらと覚えてるよ。調理実習の下調べしたときに、たまたまレシピを見つけたんだ。ニコ、ほんとに作ったの!?」
「もちろん。美味しかったですよ、泣けるくらい。先生も甘い物が好きなのかなって想像したりして」
『甘い物好きですか?』
『お菓子を作ってみませんか』
ホットケーキミックス、砂糖、卵、牛乳、バター。混ぜて炊飯器のスイッチを押すだけ。自分のためだけのケーキ。誰にもあげずに、まるごと全部ひとりで食べよう。そしたら食欲も元気も出るんじゃないかな。
焼きたてのケーキは温かくてふかふかなお月様みたいだった。食べながら泣いたっけ。しょっぱくて甘い、やさしい味がした。
でも二度目に作った時は少しだけ罪悪感があったから、伊織にもあげた。喜んでバクバク食べてた。
「……あの頃、僕は死にたくてたまらなかったんです」
先生は目を見開いてニコの横顔を睨んだ。
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