6.世界で一番憎い人、世界で一番好きな人

4/5
前へ
/71ページ
次へ
「死にたい? ほんとに? そんなこと書いてなかったよね」 「今から思えば大げさだなって分かってます。でもあの頃はほんとに消えてなくなりたかった」  担任に蔑まれ、クラスメイトから無視され、居場所がなくなっていた。またあの学校で、教室で、透明になる孤独に耐えなくてはならない。  伊織から離れたくて自分から選んだ高校だったのに。真新しい制服はまだ一ヶ月も着てない。終始不機嫌な母に休みたいなんて言えるはずもなかった。  朝の電車は高校にひと駅ずつ近づいていくたび、まるで処刑場に連行される罪人の気分。動悸と呼吸が苦しくなって降りた駅のホームで、ふらりと線路に足を踏み出そうとしたこともあった。  遅いんだ何もかも、うまくいくわけない。これから先もずっとみじめな人生が一生続くんだ。 『光、代わりに書いてくんない?』  伊織が投げ出したノートを手に取った。まっさらな新品のノートには「交換日記」と整った字で書いてあった。  突っぱねてもよかったんだ、そんなの自分で書けよって。でも、むしゃくしゃして悩んでばかりいた時に出会った一筋の光にみえた。 『僕と友達になってくれませんか。君のこと教えてください』  まるで隣に腰をかけ、膝をこちらに向けて穏やかに語りかけてくれているみたい。安心していいよって慰めてくれてるみたいだった。 「ニコが死にたいほど悩んでるって分かってたら、伊織を脅してでも会いに行ったのに」 「先生のその言葉だけで充分です。第一、僕は先生の教え子じゃないし、先生にはなんの関わり合いもないことですから」  先生はふと顔を上げ、しばらくぼんやりしてから、肩を落とした。 「日記に何を書いたかまでは、はっきりと覚えてないよ。でも変わろうとして、ひとつでも行動を起こしたのはニコだよ。僕はこうしたらどうって、ほんの少し提案しただけ。ニコを変えたのは自分自身の力だよ」 「でも、先生がいなかったらどうなっていたか分かりません」 「役に立てたのなら何よりだけど、すべて仕事としてやったことだ。それ以上でもそれ以下でもないよ」  きっぱりと告げられた言葉は心にずしりとのしかかる。  先生が伊織を守っていたのも、伊織の兄である自分と交換日記をしていたのも、それが教師としての仕事だからだ。そんなことは当然のことで、今さらショックを受けることでもない。 「一年の間に、伊織は変わった。手が付けられない悪童だって聞いてたけど、彼は少しずつ自分の頭で物事を考えて行動できるようになってきた。もちろん彼が成長したんだろうけど、ニコが支えがあったからなんだね」 「僕はなにも。先生こそ、脱走した伊織をいつも探してくれてたじゃないですか」 「伊織が暴れるたびにお母さんに電話したけど……一度も出なかった。子どもに手がかけられないくらい生活が破綻してる家もあるんだ。でも彼は痩せても空腹でもなかったし、清潔な身なりをしてた。食事も洗濯もニコがしていたんでしょう?」 「それは……そうですけど」 「思い出したよ。伊織の生活を支えている兄って、どんな子だろうって興味があったんだ。悩んでたみたいだったから、少しでも慰めになればなと思って。それで……返事を書き続けたんだ」  先生は頬杖をついて窓の外へと顔を向けた。先生はなんでもお見通しだ。憎らしいほど教師としては有能で、悔しいほど人格者だ。  自分にとっては人生を変えるような出来事でも、先生にとっては、ただの仕事上の延長でしかない。しかも自分は、先生が担任をした何百人もいる教え子のうちの一人ですらないのだ。特別扱いしてもらえなくて寂しいなんて言う権利、自分にはない。 「遅くなっちゃいました。運転、しますね」  ニコは車のエンジンをかけ、ふたたび帰路へとついた。もう深夜1時を過ぎていた。車内の空気がなんだか重い。なにか話さなきゃいけないと思えば思うほど、言葉にするのは難しくて。 「伊織は元気? 今はどうしてるの?」  先生が先に沈黙を破った。 「今は祖母と母と、3人で祖母の家で暮らしています。昼間は道路公団で働いて、たまに祖母がやってるスナックの手伝いをしてるって聞いてます。最近は彼女ができて、結婚したいなんて言ってるみたいです」  道路工事の先導をしたり、道路上に落ちてしまった落下物を拾ったり。体力自慢でじっとしていられない伊織には向いている仕事だと祖母から聞いている。 「伊織とは、大人になってようやく分かり合えた気がします。今はたまにアイツから連絡が来るんですよ」  それは良かったと応える笹原先生の表情は、ほんとうに穏やかな「先生」の顔をしていた。  伊織のことも、自分のことも、先生にとっては仕事で。当たり前のことなのに、そう確信したとき胸がずきんと痛くなった。  分かっていたはずなのに――――。
/71ページ

最初のコメントを投稿しよう!

97人が本棚に入れています
本棚に追加