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「私、異動願いを出そうと思ってるんです」
公民館の前を通り過ぎたところで、千秋が口を開いた。
異動願というと、今勤務してる小学校から市内の別の学校に移りたいという希望を出すことだ。確か千秋は4年目のはずだから異動願いは出せる。だがこの学校にすっかりなじんでいると思っていた彼女が、勤務先を変える理由が見当たらない。
「いいかげん、田舎が嫌になったんですか」
「それもあるけど……そろそろ結婚したいなって思って」
「あぁ、結婚するんですか」
「いえ、したいんです」
千秋は食い入るように、笹原の横顔を見つめた。
「笹原先生、私と付き合いませんか?」
「は?」
「彼女とか、今いないですよね?」
「付き合うって……千秋先生と僕が、恋人として付き合うってこと?」
「そうです。私を先生の彼女にしてください」
学校の校門をくぐって急坂をあがり、校舎全体が姿を現した頃になってようやく気づいた。これが告白だということに――。
笹原はいつもの教員用の駐車場に停め、性急にエンジンを切った。
「千秋先生、僕なんかのどこがいいんです? 思いつきで告白なんてするもんじゃないですよ」
「思いつきじゃありません。笹原先生のこといいなって思ってたのはずっと前からです」
千秋は意志の強そうな唇をきゅっと引き結んでいた。この冗談みたいな告白に、彼女はそれなりの覚悟を持っているということに内心驚いていた。
「一年間、よーく観察して出した結果です。先生には、はっきり言わないと一生気づいてもらえないって分かったから、今言ってるんです」
昨年度、この学校に異動してきた頃から彼女には世話になっている。明るくて面倒見のいい先生、ちょっと口うるさいけど……という周囲の評価に異論はない。
一年間講師として勤務し、翌年採用試験に合格してからこの学校にやってきたはずだった。歳は二つ下で、大学は音大で、後は他にも色々話した気もするが思い出せない。
彼女のことをそれだけしか知らない。知ろうと思ったこともない。
そもそも。
恋愛なんてしたいとは思わない。
人を好きにはならない、もう二度と。
正直に伝えたところで彼女は納得するのだろうか。
「……あの、千秋先生」
「ちょっと待ってください! 返事はいいんです……まだ言わなくて。分かってますよ私だって、笹原先生にどう思われてるかってことぐらいは」
はぁ、と間の抜けたな返事をする。彼女の好意に気づかなかった自分の方こそ鈍感すぎるのかもしれない。
「とりあえず来週の歓迎会のあと、ふたりで飲みに行きません? 二次会ってことで」
「それは……いいですけど」
「良かった。お店、探しときますね」
明るい声でそう返答し、先に行くと告げて車を降りていった。
校舎へと向かう彼女の後ろ姿を遮るように、山桜の花びらがひらりとフロントガラスを滑り落ちてきた。
ハンドルに腕を乗せて見上げれば、雲のない空があますところなく広がっている。額縁のように周りを囲む新緑とは呼べない山の景色は、まだどこか青白かった。
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