あなたのいない世界など

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「……高校時代のニコを僕が救ったって、君は言ってくれたね」 「まぎれもない事実ですから」 窓の外は冷え冷えとした青空が広がっているけれど、病室内は春みたいに暖かい。先生の声は穏やかで、その声はカーテンに染み込んでいった。 「ああ、ひとりだけでも救えたんなら本望だなって。生きてた甲斐があったなってね。教師なんてやりがいがありそうな仕事に見えるかもしれないけど――子どもたちから感謝されることなんて、ほとんどないよ。卒業式に寄せ書きをもらうくらいで。あとは本当ににささいな、一瞬のできごとの積み重ねだよ」  今自分が大人になって、学校で働くようになって、先生達の苦労がようやく理解できたような気がする。  毎日、大勢の子ども相手に褒めたり、怒ったり、受け入れたり……体力も気力も、意欲さえも燃え尽きて、自分だったらあっという間に炭になっちゃいそうだ。 「そもそも僕たちができることは限られてる。子どもの成長に寄与してるなんて思い上がりも甚だしいよ。教師ができることなんて、朝顔の伸びたツルをほんのちょっと支柱に巻き付けてあげるだけくらいのもの。それだけで、あとは太陽に向かってそれぞれのペースでぐんぐん伸びていくんだ」  枯葉色の先生の瞳がニコの心を探るようにじっとのぞき込む。先生の想いも言葉もひとつも逃したくなくて、ニコは上目遣いで彼を見つめ返した。 「でもね、先生がいたから生きられた、命を救われたなんて言われたのは、ニコが初めてだよ。もちろんそれは教師としてだけど、でも本当に初めてで……ニコと話したあと、君を救えたんだって実感したら、すごく温かい気持ちになった。自分がやってきたことがたまには報われることもあるんだなって……」  先生の瞳にも声にも、熱いものがくすぶっていた。 「僕が毎日捧げている仕事を認めてくれた気がして嬉しかった。そう、嬉しかったんだ」 ニコは、嬉しいような寂しいような、申し訳ないような切ないような、苦くて甘い感傷を感じていた。拙くてもいい、自分の想いを伝えなきゃと乾いた唇を開く。 「先生に感謝してる人はたくさんいますよ。ただみんな自分のことに精一杯で、振り返らずに前を向いて歩いているだけ。僕だけがただ、しつこく先生を追いかけていただけで……僕が、先生を困らせていることは分かってました」 「困るって、何が?」  先生と初めて言葉を交わした桜の木の下、自分のためだけに先生が声をかけてくれた時、後先考えずに告白したんだ。あの日から始まったんだ、先生との長い道のりが。 「だって先生は、男から告白されたことなんてないだろうし、迷惑でしかないのに……それからもずっと先生はやさしくしてくれた。僕のことなんて無視されて当然なのに……」 「迷惑だなんて誰が決めたの? 確かに――はじめは驚いたけど」 「だって重いですよ、ストーカーまがいなことまでしてたんですから。今回だって、先生が事故に遭ったって聞いて、いてもたってもいられなくて……先生と一緒に登った山の神社に行ったんです、何度もお参りして。こんなの気持ち悪いですよね、自分でも分かってます、いつまでもこんなことしてちゃいけないってことは」  ぐちゃぐちゃになった気持ちを抑え込もうとすればするほど、堪えきれずに涙とともに溢れてくる。頬が濡れるのも構わずに、ぽろぽろと本心が口からこぼれていった。 「千秋先生も教頭先生も、笹原先生は大丈夫だ、きっと意識は戻るからって言って励ましてくれたけど……僕の中で、先生の火が消えそうだったんだ。消えたら最後だったんだ。そんなの嫌、絶対に嫌……」 「そんなに泣いたら目が溶けちゃうよ?」  先生はよいしょと腰を浮かせてから腕を伸ばし、ニコの頭をひと撫でした。そのまま首筋をするりと通り抜けて、傷口に薬を擦り込むかのように、ゆっくりとニコの背中をさすり続けた。 「ニコといると感情の振れ幅がすごくてさ、生きてるなって実感するよ。ほら、触ってみて」  先生はニコの手を取って自分の胸にぐっと押し付けた。先生の鼓動が、手の平を伝って身体の奥深くに流れていく。 (なんて、あったかいんだろう――)  さっきまで目を逸らしていた先生の身体に、今こうしてふれていることが信じられなくて、息を呑み込んだ。 「僕はそんなに簡単には死なない。ちゃんと生きてるよ。心臓も動いてるし、脈も打ってる、体温も高いでしょ……だから、もう心配しなくてもいい」
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