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君は誰?
始業式から2週間が過ぎ、5月が近づくにつれ日ごとに暑くなってくる。職員室の大きな窓からはケヤキの新緑の若葉が瑞々しい光をうけて揺れていた。
教科書とプリントが積み上がった山の隙間から、笹原は沁みるような若草色に目を細めた。こんな陽気の日に芝生の上に寝転んだら、さぞかし気持ち良いだろうな、などと思いながら。
あの日から青年との会話はなかった。こちらから話かけることもないし、向こうもまったくといっていいほど関わってこようとはしなかった。
すれ違ってもまるで視界に入っていないかのように通り過ぎていく。朝の挨拶だけはいささか大げさに立ち止まって礼をされるから、こちらの方が気まずくなってしまう。
(まぁいいか気にしなくて。相手は教師ってわけじゃないし)
笹原は正直ほっとしていた。あれ以上何か行動にでられたらどうしようかと、少しは警戒はしていたのだ。
次の日の朝、学校に出勤してすぐのことだった。
朝一の算数で使う整数のプリントをコピーしないと、などとボンヤリ考えながら歩いていて児童玄関の横にある畑を通ったときに気づいた。
2年生が生活科の授業で植えたばかりの、野菜の苗が荒らされていたのだ。
象が踏み荒らしたかのようにボコボコに土は掘り返され、無残にも野菜の苗はしおれていた。昨日までは、草が生えないように黒いシートがかけられ、ナスとミニトマトが二列ずつ、赤ちゃんみたいな苗が行儀よく植えられていたはずだ。
「ひどくないですかこれ!? 誰がこんなこと……」
千秋はその光景を見た途端、叫び声をあげた。
「……これ、イノシシの仕業だね」
「ええっ、イノシシ!?」
「千秋先生、見たことないんですか」
「ないですよ、こんな現場は!」
登下校の見守りボランティアをしてくれている筑地さんに教わっていたから知っている。この地域のことならなんでも把握している、元校長の地元の名士だ。
彼によるとイノシシは鼻で土を掘り起こし、土の中のミミズや虫を食べるらしい。サツマイモや稲も大好物だといっていた。
「わー、なにこれ」
「ひど、誰がやったの?」
「枯れてるじゃん!」
登校の時間になって、子どもたちは花壇の前を通るたびにキャーキャーいって騒いでいた。
千秋や先生達が必死になって植えた野菜の苗たちも、子どもたちにとってはそれほど思い入れはないらしい。悲しむというよりはおもしろがっている子の方が多かった。
授業が始まる頃には、畑のことはすっかり頭から抜けていた。
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