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「笹原先生まだやってく? 戸締まりお願いしていいかな」
教頭がいつもの黒いジャンパーを羽織り、書類棚に鍵をかけている。職員室の中はすでに人影もなくがらんとしていた。分かりましたと笹原が返事をすると、教頭は思い出したように振り返ってふたたび声をかけた。
「君もたまには、早く帰んなよ?」
「そうします」
「家で待ってくれてる人がいると、もっと早く帰ろうと思うんだけどねぇ。君たちもそろそろじゃない?」
君たちという単語に含みを感じつつ、気づかないふりをした。入学式の日に、千秋と買い出しに行っただけで、ふたりには何かあるんじゃないかと勘ぐられているらしい。
定年前の年代の人たちは、教師同士の結婚が最適解だと信じている。言い訳すると余計に疑われそうだ。
窓際のカーテンを閉めながら窓から覗くと、あの青年はまだ畑にいるのが見える。笹原はため息をつきながらカーテンを勢いよく閉めた。
外階段に続く扉を開けると、山間部特有の刺すような冷気が服の隙間から入り込んでくる。笹原は捲っていたシャツをのばしてから腕を組んだ。
畑は元通りに綺麗にならされていた。
苗を植えるための畝が作られ、近くには雑草防止用の黒いシートが置かれていた。ポリマルチといって巨大なラップのように土を覆って使うのだと、去年までいた校務の青木さんに張り方を教えてもらったことがある。
「ねえ、門閉めたいんだけど、まだやるの?」
「あ、すいません! すぐ終わります」
作業に没頭していて周りが真っ暗闇になっていることにも気づいてなかったのだろう。青年は慌てて立ち上がり、周りに散らばっていたスコップやクワを片付け始めた。
笹原は苛立ちを隠さない口調で告げた。
「その黒いシート、張るんじゃないの?」
「え? あ……はい」
「さっさと終わらせて帰るよ」
驚いて目を見張る彼を無視して、シートを持ち上げた。シートと笹原を見比べ、笹原が何をしようとしているか理解したらしい。
自らがはめていたグリップのついた軍手を丁寧に土を払ってから差し出してきた。
「先生、これ使ってください」
「大丈夫だよ、このくらい」
「だめです。怪我をしてからじゃ遅いので」
懇願するように差し出された軍手に、反論するのも面倒になって受け取った。
軍手はほんのり温かくて黒土の臭いがした。笹原がシートを持っている間に、青年は手際よくシートの端に土をかぶせ固定していった。
2人でやるとあっという間に作業は終わった。
道具を片付けながら、彼はぽつりとこぼした。
「……これでもう荒らされないといいですけど」
「どうかな、柵でも立てないとまた来るかもよ」
「なにか対策を考えないといけませんね」
真剣に考え込む青年の横顔を見つめながら、笹原は口を開いた。
「イノシシを捕まえる罠をね、仕掛けてもらうことになったよ。市役所を通して地元の狩猟会に依頼するんだ」
帰り際、教頭にそんな話を聞いた。大きな鉄製の檻でできた罠を、林の中に仕掛けるらしい。子どもたちが罠に立ち入らないよう、対策しないとねと相談もされたが、どうすればいいのやら。笹原もイノシシに関しては素人なのでその辺はよく分からない。
「イノシシが罠に捕まったら、そのイノシシはどうなるんですか」
「そりゃ食べるんじゃないの、知らないけど」
「え、食べるんですか?」
彼はこわばらせていた顔を一気にほころばせた。闇夜の中で、彼の笑顔は満月みたいにあかるかった。
彼に付けられたあだ名が急に浮かぶ。
「ニコ、ってさ」
「え?」
「さっそくあだ名付けられてたみたいだけど、いいの? 訂正するなら早い方がいいよ」
「……はい。でも、気に入ってるんです、このあだ名。今までこんなに親しみを込めて、名前を付けてもらったことなかったので」
「そんなものかな」
「まずいですか教育上、とか」
「どうかな。まあ呼ばれてる本人が嫌じゃなければ、いいと思うけどね」
そういって軍手を彼の手のひらに強引に押し付けた。ついでに気になっていたことも早口でたずねる。
「前に僕と、どこかで話したことある?」
「え……いえ。ありません」
「じゃあ君は、僕のこと一方的に知ってるってことだ」
「あの、なんて言えばいいか……すいません」
「簡単には教えないわけね」
彼は手ぬぐいで口元を隠し、ただ恐縮して謝るだけで埒が明かない。だんだんいじめているような気分になってきて、問い詰めるのはやめた。
「門閉めていくから、先に車出して」
「はい。あの……手伝ってくださってありがとうございました」
深々と礼をしてから去っていく青年の姿に、笹原はため息を呑み込んだ。
会話もしたことがない相手をどうやって好きになるのだろう、まったく理解できない。告白なんてされなければ、礼儀正しくて爽やかな青年なのにな、と思わずにはいられなかった。
次の日の朝、畑の仕上がりを見ていると、またあの女子ふたり組が畑へと駆け寄ってきた。
「わー、綺麗になってる!」
「すごっ! 1日で直したんじゃん」
「すごいでしょ」
「これニコちゃんがやったの?」
「そう……じゃないかな、あそこにいるから聞いてきたら?」
職員室下の倉庫にいる彼を指さして答えた。
「ほんとだ、ニーコーちゃーん!」
「まって、りのちゃん!」
ふたりは手を振って彼の元にたどり着き、何やら騒いでいる。きっと一日で直したことを褒めてくれているのだろう。
ちゃんと見てくれている人がいると分かるだけで、頑張ろうって力が湧く。それが子どもたちだったら、なおさらだ。
去っていく笹原の高い背中を、彼は目で追いかけていた。
真剣な表情で首元のタオルを顔に当てたまま、笹原が校舎の角を曲がって姿が見えなくなるまでずっと――。
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