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1.春の光
小学校の正門脇におおきな山桜が木がある。いつもは山の緑に紛れているのに、今が盛りの桜の花は綿あめみたいにこんもりと咲き誇っていた。
学校の創立前から、この場所に生えていたのだという。もう70年近くも子どもたちを毎朝迎え入れているということになる。
半袖の日も、長袖の日も、傘の日も、体操着の日も、入学式も卒業式も。
笑い声を幹に染み込ませ、いたずらに枝を引きちぎられ、お返しに毛虫や枯葉を落とし、ここにいるよと存在感を示しながら。白い花弁と赤みがかった新葉の隙間から、無数の光が透けてゆらゆらと地面に模様を描いている。
いや、本当に揺れていたのだ。
笹原は眩しさに目を細めながら、花びらの下から声をかけた。幹の上に立つ青年に。
「見つけた、ここにいたんだね」
「笹原先生……?」
朝、始業式の前に顔を合わせただけなのに、もう名前を覚えられていることに驚いた。そんなに自分は印象深い人間じゃないはずだけど。
彼は両手で幹を掴み、ふわりと降りてきた。テレビで見た体操選手みたいにしなやかな身のこなしだ。肩も腰も華奢なのに、どこにそんな筋肉がついているのだろう。
生ぬるい春風にまじって、彼からは刈ったばかりの青草の匂いがした。
「この桜、治りそう?」
「え?」
「あそこの枝だけ、おかしいでしょ」
山桜のつぼみがふくらみ始めた3月の初めから、笹原は異変に気づいていた。
右側に張り出した枝の先だけつぼみがなかった。葉だけが密集していて、まるでそこだけほかの植物が生えているみたいだ。
インターネットで調べたら、テング巣病という病気に行き当たった。カビの一種で薬剤は効かず、治療するには病巣を取り除かないと枯れてしまうという。
そのころ前任の校務員だった青木さんは持病の腰痛が悪化して休んでいたから、相談することも叶わなかった。一応、教頭には報告しておいたのだが。
「先生……気づいてたんですか。あの木が病気だってこと」
「まあ、毎日見てるからね」
子どもも植物も毎日よく眺めていれば、調子がわるいかどうかはすぐ分かる。ただひとつ違うことは、植物は声を出して助けを呼ぶことができないってことだけ。
彼はたった一日で桜の異変に気づいたのだ。
彼の前職は庭師だと、校長は自慢げに朝の職員朝礼で紹介していた。教員全員が見つめる中で「気をつけ」の体勢のまま顔を赤くしてうつむいていた。そんな彼の髪に、小さなゴミのようなものが付いていた。
なんだろうと首をのばし目を凝らしているうちに、彼の挨拶も朝礼も終わっていた。
「明日の入学式が済んだら、許可をもらって病気の枝は切ります」
「そう。頼むね」
「はい!」
笹原はふっと唇だけで笑った。
子どもたちなら「いい返事だね」と褒めてあげるところだ。でも彼は少なくとも二十歳は過ぎてる。子ども扱いしたら嫌がられるだろう。
「教頭先生から頼まれたんだ、君と一緒に戸締りしてきてって」
「え……? あ、はい」
「今週は僕が当番なんだ。手が空いてるなら一緒に廻ろうか」
「はいっ、お願いします!」
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