黄昏

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「よし!終わった‼」   正夫はパソコンを閉じ、やっと肩の荷が下りホッとした。しばらくぼんやりとしている。その目は今まで入力していた高さ5㎝ほどの伝票の束を見るともなしに見ていた。夕食にはまだ早い。  正夫はリビングでくつろぐか先に風呂に入るか迷っていた。  すると「そうだ、散歩行こう」と思い立ち、のろのろ椅子から立ち上がった。  世間の在宅勤務も早一年。コロナの終息が中々見えない中、正夫の会社はいち早く働き方改革を実施、在宅勤務率が高かった。正夫は入社以来、経理畑一筋。元々対話が苦手で数字に強く堅物だった正夫はの仕事内容と働く環境に大いに満足していた。 「ちょっと散歩に行ってくる」  正夫は二階で洗濯物を取り込んでいる妻の明子に声をかけ、履きなれたサンダルを突っかけ外に出た。  正夫の自宅は小さな商店街の一画だ。右隣りが花屋、左隣りは一軒置いて呉服屋である。  正夫が右に向かうと店の前で花に水をくれていてた花屋の娘、花ちゃんと目が合った。 「あっ、正夫おじさん。こんにちは。さんぽですか」花ちゃんの屈託のない声。 「ちがいます!」  正夫は花ちゃんをキッと睨み 「二歩‼︎」ピシャリと訂正した。  だが、すぐさまハッとなり今度は優しく 「あっ、ごめんね」     •     •     •  更に何か言おうとするが次の言葉が出てこない。堪らず踵を返す正夫。見送る花ちゃんの眼は悲し気だった。  正夫が何事もなかったように呉服屋の前を通りかかった。幼馴染の福さんが丁度暖簾を仕舞うところだった。 「おやっ、マサさん、散歩かい?」  福さんが親しげに声をかけてきた。 「ちがうよ!」  正夫は振り返って歩いた箇所を指で追い無意識に怒鳴っていた。 「七歩‼︎」  目を見開き固まってしまう福さん。  だが、正夫はサッと我に帰り 「すまん、すまん」     •     •     •  続く言葉は浮かばなかった。  福さんは戸惑いを隠せない。その眼はひどく寂し気だった。   「ゾクッ。ゾクゾクゾクッ‼︎」  突如、正夫が寒気立つ。  底無しの不安が正夫を引き込み息が苦しい。 「ハッ!」 「ハッ!」 「ハッ!」  巨大な恐怖で胸が張り裂けそうだ。  呆然と立ち尽くす正夫。    その時、妻の明子が慌てて駆け寄ってきた。  明子が福さんに目配せし、正夫の手を優しく握り諭すように語りかけた。 「正夫さん。三歩ぴったり歩いたわ。さあ、家に帰りましょう」  正夫と明子が自宅に戻るとテーブルに夕食を揃えていた娘の(みゆき)が誰に言うともなく呟いた。 「お父さん…進行…早いね…」  すかさず、正夫が穏やかにの目を見詰めて微笑んだ。 「そんなことは無いよ、明子」
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