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②
一目惚れなんて本当にあるのだろうか。ひとめ見て、あ、この人好き! ってなるのかな。
他には一緒のクラスの男子生徒に優しくされて、それから彼のことが気になるようになったとか。
突然に『好き』が振ってきて、告白して、成就して、それからなんか、ラブラブになって。
そんな物語を盛り上げるのは第三者の介入。三角関係。
でも世の中うまくものなんてなくて、一目惚れしたって相手がこちらを知らないなら恋人同士になんてなれない。第三者とか、その人も都合良く自分を愛してくれるとか、それこそ夢物語でしょ。
でも今なら、それら全部信じることが出来ちゃいそう。
だってほら、私は今日も教師相手に恋してる。
「ようするに、私の初恋なんです。澄木田先生は」
「そうかー」
プリントを見ながら頷く澄木田に、梨沙は笑顔で手に持っていた手作りクッキーをデスクに置いた。
この高校には体育教官室という部屋があり、体育教師がいる場所だ。職員室よりも、彼はここにいることが多い。否、ここしか使っていないだろう。
そんな部屋があることを知ったのはここ最近、一週間前である。
この教室なら生徒と教師、二人きりになれるだなんて。なんて都合の良い場所だろう。まさに運命を感じる。
小さな個室。窓はなく、一番奥にデスクが配置され、手前にソファがひとつ。その前にローテーブルが置かれており、なんとなく小学校の校長室を思い出す。
「でもな、樫成」
「はい」
置いた手作りのそれはそのままに、澄木田はプリントから顔を上げる。
目が合ったのが少し恥ずかしくて、梨沙自ら視線を逸らす。こちらを向いてくれたのが嬉しいのに、前髪は変じゃないかなとか、薄く化粧をしたの崩れてないかなとか、どうしようもないことを考えてしまう。
ビリビリするような身体を持て余すように自分の手を握り、「なんですか?」と視線を逸らしたまま続きを促せば、聞こえたのは溜息。
「その初恋は勘違いかもしれないぞ?」
「またですかぁ? その話し、何回も聞いてるんですけど」
「またですかは俺の台詞だ」
恥ずかしかった気持ちがへこみ、唇を尖らせながら澄木田を見れば、心底呆れたという目でこちらを見ていた。それなのに胸はときめくのだから厄介だ。
「いいか? 樫成のそれは、俺が樫成が欲しかった言葉をあげたから嬉しかっただけであって、別に恋じゃないんだよ」
「えー、恋ですよ」
「違うって」
また溜息をついてプリントをデスクに置く。片手で頬杖をつき、「違う違う」と首を横に振った。
「初恋っていうことは、中学の時は誰かを好きになったこと、なかったんだろう?」
「はい。テニスしかしてなかったんで」
「んで、今はテニスをやめて高校生を謳歌しようとしてる」
「まさに青春です」
「その青春に俺を巻き込むな」
「巻き込むというよりも、澄木田先生の存在が青春です」
はっきりそう言うと、「手強いな」と澄木田は再び溜息をついてしまう。困らせたいわけじゃない。困らせたいわけじゃないのだ。それでも彼を求めてやまなくて、自分だって自分に参ってる。
「優しくしてくれたから、欲しい言葉をくれたから、そんな簡単に恋に落ちるなんて、自分でもあり得ないって思うんですけど、どうしようも出来ないんです」
「あー、まぁその気持ちは分かるんだけどさ」
「分かるなら私を受け止めてくださいよ」
今まで恋愛なんてしたことがないということもつい先日知って、愕然として、次の瞬間、恋に落ちたなんて。
恋に恋してる。
そう言われたって仕方が無い。
でもじゃあこの気持ちは何なのか。嘘? 勘違い? 雛が親鳥を追いかけるみたいな? そんなもので片付けて欲しくないし、私だって片付けたくない。でもいま自分の中にある恋というものにはほとほと参っていて――――ほら、堂々巡りだ。
「私は先生に優しくされたいです」
「優しくしてる」
「先生と一緒にいたいです」
「いま一緒にいるだろ」
「大切にしたいし、大切にされたい」
「・・・・・・生徒としては大切にしてる」
「生徒としては嫌なんです」
「無理言うなって」
「無理ですか?」
そう聞けば、澄木田は黙ってしまう。その沈黙はどう捉えたらいいのだろう。
よく沈黙は肯定だと言うけれど、全てがそうじゃないと思う。言葉が出てこないなんて当たり前にあるし、相手が傷つかないようにあえて沈黙する場合だってある。
それを分かっているけれど、止まらないのが恋というもので。
「困らせたいわけじゃないんです」
「分かってる」
「ならどうしたら大切にしてくれますか?」
「樫成が望む大切というのを俺はお前にしてやれない」
「理由は?」
「好きじゃないから」
「わぁ、どストレート」
チクリと心が痛む。でも諦めるという単語は出てこない。
「じゃあ――――」
どうやったら好きになってくれますか? と言おうとしたところで、『コンコン』と体育教官室のドアがノックされる。それはもう恒例になっていて、梨沙は口を閉ざして溜息をついた。
「すみませーん、梨沙を回収しに来ましたー」
ガチャリと開いたドアの隙間から顔を出したのは美里だ。それに澄木田は顔を上げ、軽く手を振った。
「あー、悪いな保津」
「いえいえ、こちらこそ毎度迷惑かけてすみません」
美里は中に入り、梨沙が置いた手作りクッキーを取る。そして次に梨沙の手を取って引っ張った。
「じゃあ、今日はここら辺で」
「ちょっと、私はまだ澄木田先生と話したいんだけど」
「失礼しました-」
そのまま引きずられるように体育教官室から連れ出される。それを止める澄木田の声は聞こえない。
「ちょっと美里、なんでいつも邪魔するの」
「邪魔してるのは梨沙でしょ?」
放課後の時間。
彼がバレー部の顧問として顔を出すのは、しばらく時間が経ってからだ。理由は知らない。けれど体育の教師としての仕事もある。放課後全ての時間をバレー部顧問に当てることは出来ないのだろう。
そんな時間に体育教官室に行く梨沙を美里が言った『邪魔している』という単語は決して間違いではない。
「まぁ、邪魔してるけど」
小さく呟くように梨沙は言う。
それに美里はチラリとこちらに振り返り、前に戻す。
捕まえるように繋ぐ手は温かくて、澄木田先生に頭を撫でられたことを思い出す。ただそれだけで心がきゅうと音を立てるように苦しくなるのだから、恋というのはなんて大変なものなのだろう。
「そんなに先生のこと好きなの?」
澄木田、という名前を付けなかったのは周りに人がいる配慮だろう。美里はそういうことにも気を回せる。やっぱりいい女で、親友だ。
廊下を歩きながら問われ、梨沙はその手を強く握り返して答えた。
「好き」
ハッキリ、きっぱり。でもそのあとに。
「多分」
そう付け足した。
「でも恋に正解も不正解もないでしょ?」
「そうだけどさ、不正解の恋はしちゃだめだと私は思うよ」
「・・・・・・・・・・・・」
教室のドアをくぐる。
自分の席に座れば、いつものように美里がその前の席へ。そして澄木田にあげたつもりの手作りクッキーを美里が食べ始める。
ほぼ毎日手作りの何かを作っては美里の胃に入ってくのを梨沙は静かに見守る。
本来それは好きな彼に食べて欲しいものだ。彼を想って、美味しく食べてくれますようにと願って、精一杯の気持ちを込めて作ったもの。でも心のどこかで、これを渡したって食べてくれない。ただ困らせるだけだと分かっているから、美里が「美味しいよ」と食べてくれることに安堵している自分がいる。
「クッキー、甘さ控えめなんだね」
「・・・・・・うん。先生が甘い物苦手かもしれないから」
「聞かないの?」
「聞いたよ。でも答えてくれない」
「ま、仕方が無いね」
サクサクと食べた美里は手をパン! と合わせて、「ごちそうさまでした」と言う。その言葉に、先生にあげるつもりだったのに、とか。勝手に食べないでよとか、逆にありがとうとか。
色々な言葉も気持ちもぐちゃぐちゃになって何も言えない。けれど美里はそんなこと気にした様子もないし、きっと分かってくれているから何も言わない。
お菓子のお礼とか言って、何かをくれたりもしない。だからこそ、美里に食べてもらえるのが安堵するのだろう。
「梨沙はさ、先生とどうなりたいの」
食べ終わったクッキーの袋を畳み、縛っていたピンク色のリボンでそれをまとめる。ちなみにそのリボンは一緒に帰りながら百円ショップに寄って、美里と選んで買ったものだ。
「恋人同士になりたいの?」
「まぁ、多分」
冷静に返す言葉は、なんて冷たいものなのだろうか。
澄木田先生の前では身体が痺れるような感覚がして、心臓が驚くくらいバクバクして、恥ずかしくて、嬉しくて、どうしようもない感情にさいなまされるのに。
美里に聞かれたことに答える自分は悲しいくらい冷えている。
「大事にされたいし、大事にしたい」
「私とかじゃダメなの? 仲良しじゃダメ?」
「うーん。それとは違うんだよ」
そうじゃないのだと説明したくても、やっぱり気持ちはぐちゃぐちゃだ。
「多分さ、先生が優しくしてくれたから嬉しかった恋をしたっていうのもあるんだろうけど、私の気持ちを理解して汲んでくれた、そのあの人に愛されたいんだと思う」
テニスをやめると言った瞬間から、今まで味方だった人が、ほぼ全員敵になった。驚きつつも受け入れてくれたのは美里くらいだ。
でもその美里と仲良くしていればいいのかと聞かれたら、答えはノーだ。
「もし私の恋愛対象が女の子だったら、きっと美里にアタックしてたよ」
「アタックして欲しいなぁ、私」
「彼氏持ちがなに言ってんのさ」
「それくらい梨沙のことが大事ってこと」
美里が苦笑する。
「すごいね、美里」
「なにが?」
「私、美里と恋をしたかったなぁ」
少しだけ震える声。『なんてね』と冗談にすることも出来ずに、本気でそう思う。でもきっと本気で彼女を愛してしまったら、こうやって傍にいてくれることはないだろう。お互い相思相愛ならば問題ないけれど、彼女も恋愛対象は男性だ。
(私が傷つかないように、私の傍を離れていくんだろうなぁ)
それは残酷だけれど、何よりも得がたい優しさだ。
私も澄木田先生にそんな優しさを渡してあげたいのに、どうしてこんなことになっているのだろう。
「もう泣きたい」
「泣いていいよ」
「でも涙が出ない」
「そりゃ諦めきれてないからだな」
当たり前のように言う美里を見れば、彼女は手の平で小さくまとまったクッキーの袋を転がしながら言う。
「愛されたい、大事にされたい、そういうのって人間の最大の欲望だと思うんだけど、その感情って当たり前のことじゃん?」
「赤ちゃんだって愛されるように一所懸命に泣くしさ」と続けた言葉に、そうなのか? と梨沙は思いつつも頷いておく。
「梨沙は中学時代、テニスばっかりしてその感情はなかったんじゃない? そりゃ大会で一位取ったら周りは喜んでお祭り騒ぎみたいだったけどさ、梨沙からすれば、それは愛されてるからって理由じゃないでしょ?」
「え、だって一位取って喜ぶっていうのは別に愛じゃなくない? 一位取ったからだけでしょ?」
「ほらそこだ」
美里はびしっと梨沙を指さした。
「少なからず梨沙を愛してたから、一位取ってよくやったな! すごい! 頑張ったな! ってなるんじゃない? どうでもいい奴が一位取っただけだったら、周りは喜んだりしないよ」
「形だけ、とりあえず喜ぶんじゃない?」
「まぁ、そう思うのは仕方が無いか・・・・・・」
今のあんたの家族を見たらね、と呟くように付け足された言葉を梨沙は聞き逃す。
「とにかく人は愛されたい生き物なんだよ。それを普通年を重ねるごとに理解していくんだけど、あーほら、サンタがいるかいないか、みたいにさ。でも梨沙は中学まるっと愛されたいっていう情緒が育たなかった」
「ようするに脳筋なわけだ」
「ま、単語としては当たってるかもね」
だからこそ。
「テニスもやめて、脳筋を解放して、空っぽになった両手に、元々持っている人間の愛されたいっていう欲望があることをようやく認知したってこと」
「諦めきれないっていうのは?」
「いま梨沙は抱えてるものないじゃん。暇だ暇だって言ってさ。そこに釣り餌が垂れてきたら勢いよく食べに行くでしょ? 餌を食べるのに失敗しても、また釣り餌が垂れてくれば諦めずにまた狙いに行く」
「諦めずに餌を囓ろうとするってこと?」
「そういうこと」
「なんか複雑すぎじゃない?」
「単純だって」
表情を歪めた梨沙に美里は笑った。
「今になって人間の本能が目覚めたんだよ、りーさちゃん」
「うっざいわ、みーさーとちゃん」
悪友みたいにニシシと笑い合いながら額を小突く。
(人間の本能か)
愛して欲しいという欲望。
それはきっと何よりも罪深くて、でも人間であるが故に許されるもの。
例えばコップにその欲望を注いだとして、それが溢れたら愛しすぎで、足りなかったら愛が足りないってことになるわけで。
丁度よく適度な量を注ぎ込めれば、きっと恋に正解も不正解もないという言葉の、『正解』の方になるんだと思う。
でもまた例えば。
そのコップにヒビが入っていたら? コップ自体が汚くて、注いだものを濁らせてしまったら? そもそもコップの存在に気付いてもらえなかったら?
きっと人の数だけ様々なコップがあって、気に入ったものに注ぐのだと思う。
じゃあ私は?
どんなコップにしたら愛される? 澄木田先生が欲しがるコップの形、色。その欲望を注ぎたいと思わせる何かは、なに?
暇だから恋愛をしているわけじゃない。でもきっと暇になったから見えた恋愛だ。
大事にされたい、大切にして欲しい、愛されたい。
本能、欲望、願望、祈り。
別になんでもいいよ。
ただ私は、
「ちょっと、お母さん!」
愛されたいという、人間が持つ気持ちに、気付いてしまっただけなんだ。
「なんでまた私の部屋にトロフィー飾るの!? もうやめてって言ったよね!」
「だって、梨沙ちゃんが頑張って取ったものよ? 飾らないと勿体ないでしょう」
「勿体なくないよ! 私はもういらないんだってば!」
「なんでそういうこと言うの!」
あーあ。
「あれだけテニスやって、プロになる道だってあったのに! なんでやめちゃうのよ!」
「もうやりたくないから! ただそれだけなんだってば!」
ほんと。
「テニス以外なにをするのよ! 梨沙ちゃんがテニスやめて、何が残るのか言ってごらん!」
愛されたいわ(笑)
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