37人が本棚に入れています
本棚に追加
「あ、ごめんなさい」
私は反射的にそう返し、移動する。
「どうもありがとう」
そう言って入ってきたのは、腰まである茶色の髪の毛をゆるくカールにした少女。おそらくルームメイトの子だろう。
「どういたしまして。えっと……」
ルームメイトの名前まで確認していなかった私は、名前を呼べなかった。
「國武牡丹です。物のボタンではなくて、牡丹の花の牡丹」
「そっか、牡丹さん。よろしく。私、角坂凪沙です」
時羽かもしれないという期待を持っていた私は、すこし悲しくなった。勝手に一人で期待して、一人で悲しんでいるなんて、牡丹さんからしたらすごい迷惑かな、なんて考えながら。
「凪沙さんは、どうやって書くの?」
「海が凪ぐ、の凪と、沙羅双樹の、沙」
沙羅双樹とは、平家物語に出てくる花の名前だ。「祇園精舎の鐘の声」という冒頭は、一度は聞いたことのある人が多いはず。「諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色」という文の後に、「盛者必衰の理を表す」と続く。
私の名前も、そこからとっている。盛者必衰なんていうから縁起が悪いのかと思ったけれど、実はそういう意味でもないらしい。
宗教的な話になるけれど、沙羅双樹は、仏教では神聖な花という位置にいるらしい。それに、花が咲くことも稀のため、類いまれなる才能を、という意味を込められた「凪沙」という名前。結構気に入っている。
「牡丹さん……呼び捨てでもいいですか?」
そう聞いてから、しまったと思った。普通、もっと仲良くなってから聞くもんだよね、こういうの!
時羽がなかなかに不思議な子だったため、少し感覚が狂ってしまったのだろうか。時羽、恐るべし。
「別に呼び捨てでもあだ名でもなんでもいいのですけれど。私は、凪沙ちゃん、と呼ばせてもらいますね」
……ちゃん付けで呼んでくれる子、ゲットだよ。
星露に来てから、ずっと苗字か、呼び捨てだったから、ちゃん付けで呼ばれるのが、なんだかくすぐったい。
「ありがとです」
親指を立てながら言う。
「ど、どういたしましてです……?」
小首をかしげながらも同じように返してくれる牡丹。なかなかにかわいい。
最初のコメントを投稿しよう!