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1.黒い糸で繋がって(加賀男と真鶴)
彼女と己は赤い糸で結ばれてはいない。
そう、加賀男は思う。
彼女――古野羽真鶴と出会ったのは、十二のときだ。いや、正確には己の分身と真鶴が邂逅した。
本能である黒蛇は、加賀男という理性を無視してふるまう。好きなときに現れ、勝手気ままに行動するのだ。己から出たのも退屈だったから、そうとしか考えられない。
感覚も視界も、全てを共有する加賀男としては、すぐにでも連れ戻したかった。だが、その前に、黒蛇は子どもたちに捕まってしまったのである。
木の棒でつつかれて、蛇は我慢の限界にあった。元々暴走しやすい気がある分身だ。このままでは子どもに危害を加えかねない――そう感じた加賀男が焦りを見せた、そのとき。
「生き物をいじめてはだめ」
鈴のように柔らかく、透き通った声音がした。
波がかった長い黒髪と、大きな黒目。白い手を包むのは灰色の着物。
困ったように微笑む彼女――真鶴は、幼いながらも美しかった。
真鶴は文句をいう子どもたちから、己を救った。どう救われたのか、彼女が何を言って他の子を説き伏せたのかは覚えていない。
まだ七つほどだというのに、どこか哀愁を帯びたおもて。己を持ち上げるたおやかな手つき。滑らかな肌。こちらを見つめる瞳。
ただただ、背筋が震えたのだけは記憶にある。そのとき、まだその感覚がなんなのかはわからなかったが、不快さとは縁遠かった。
「あなたはとても綺麗な目をしているのね」
顔を、瞳を覗きこまれて微笑まれ、加賀男は固まる。
――綺麗なんだろうか。怖くはないのだろうか。気持ち悪くないのだろうか。
そう思い、ただ硬直することしかできない己を運び、真鶴は手当てをしてくれた。内密で、ひっそりと。包帯を巻いてくれる程度だったが充分すぎる。
伊国式の建物、その横にぽつんと残された離れ。緑が生い茂り、夏の陽射しを遮る庭はとても過ごしやすかった。
「もう、捕まっちゃだめだからね。蛇さん」
彼女は己を縁側から降ろし、手を振る。
――帰ってこい。
そう、加賀男は命じた。確かに彼女に恩義はできたが、長居すれば迷惑もかかるだろう。『理性』では思った。だが、『本能』である蛇は無視をする。
真鶴へすり寄り、まるで犬猫のようになついたのだ。
「くすぐったい」
くすくす笑う彼女の手は、心地いい。五感全てが加賀男に伝わってくる。
あどけない笑みも、柔らかな声も、甘い匂いも――何もかもが脳天を痺れさせた。
「わたしは真鶴。まことのつる、と書いて真鶴よ」
どこかで聞いたことのある気がした名に、しかし加賀男は呆けたままだった。
「よかったら、また遊びに来てね。今度は見つからないように」
寂しそうな声音が、妙に気になる。
彼女はどうして、顔に愁いを帯びさせているのだろう。こんな立派な邸宅に、なぜ人気がないのだろう。
一つ疑問に思えば、きりがなかった。
それ以来だ。加賀男の分身たる蛇が、真鶴のもとへ遊びに行くようになったのは。
彼女が古野羽家の人間であること、母を肺病で亡くしたこと。未だ祝貴品たる長雅花を咲かせられていないため、実父に虐げられていること――
様々なことを己へ語る真鶴の言葉で知り、悔やんだ。
なぜ、最初に出会ったのが俺ではないのだろうかと。
どうして己ではなく『こがね』に微笑むのだろうと。
加賀男ははじめて、誰かを――それがたとえ己の分身でも、羨んだ。
真鶴と心通じ合わせたあとも、悔しくてたまらなかった。彼女へは平然を装ってはいたものの、こがねに対して複雑な気持ちを抱いているのだから。
運命の糸なるものがあり、それは赤色をしているとみつやはいう。だが、彼女と己を結びつけたのは、他でもない漆黒の蛇だ。ならばその糸すら黒いのではないのだろうか。
わき上がる疑問に、性根の醜さが現れている気がして、加賀男はいつも悩む。
「加賀男さま」
笑みを取り戻した真鶴の声とおもてだけが、しるべのように明るかった。
もっと名を呼んでほしい。『こがね』ではなく己を見て、ずっと微笑んでいてほしい。
そうして今日もまた、加賀男はそっと、小指を眺める。
本能の化身が、嘲笑うのをよそに。
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