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2.なんてこともない日に笑う(みつやとツキミ)
「事件が起きてますの」
などと、顔なじみの鬼子――ツキミが真面目な顔でいうものだから、みつやはあからさまに面食らった。
さりとて、加賀男が末路衣をしてから一ヶ月。現在の蛇宮はとても平和である。なので、ごませんべいを頬張りながら適当な相槌を打つことにした。
「事件。そりゃあ大変だねえ」
「真面目に聞いてほしいですの! みつやさんは単なる飯食らいですの。だから、ウチの話をちゃあんと聞く義務がありますの!」
「いや、ぼく一応、加賀男の主治医なんですけど」
「ほとんど何もしてないですの。星帝さま、元気いっぱいですの」
「こないだまでは鬱々としてたけどね……真鶴ちゃんと祝言が挙げられないからってさ」
ごまの匂いが香ばしい。ほうじ茶が美味い。
ほう、という一息が、のんきに居間へと流れた。ツキミの頬が風船のように膨らむ。
「休んでる場合じゃないですの! ひいさまのことですのっ」
「え、何、真鶴ちゃん? 真鶴ちゃんがどうしたのさ」
湯飲みを机に置いてツキミに問えば、彼女の顔があからさまに、泣き出しそうなものへと変わった。みつやは内心焦る。女性の涙は見たくない。それにツキミを泣かせたとあれば、母である夜叉鬼のハナミが黙っていないだろう。
「落ち着いてくれたまえ。まずは状況整理だ。一体何が起きてるんだい?」
「やっと話を聞く気になったですの。それがいいですの」
「あ、嘘泣き?」
「こうでもしないとみつやさん、まじめに話聞かないですの」
「将来が怖い子にならないでくれよ、全く」
「えへへ。おとなり、失礼しますの」
みつやの心配をよそに、一転して得意げな笑顔になったツキミが、よじ登るようにして隣の椅子に腰かける。彼女の視線がせんべいへ注がれていることに気付き、みつやは菓子入れを前へと差し出してやった。
「いただきますの」
「うん、食べながらでいいから、話」
「はいですの」
言うが早いか、ツキミは大口を開けてせんべいを一枚、囓る。ばりばりという音がする。
みつやはぼんやり、彼女の気が治まるまで待つことにした。
真鶴のこととなれば、医者である自分の出番は多くなるだろう。健康児――というより、病の源と呼ばれる邪気を寄せつけぬ加賀男とは違い、真鶴は庇護の力を持っていない。
それでも『星帝さまの婚約者』として長たちに認められている彼女は、現在、あやかしたちにも一目置かれている。それは、祝貴品たる長雅花を不完全ながらに咲かせ、土淵の家屋を癒やした事実が、真実として話題になっているからだ。
真鶴を害そうとするもの、危害を加えようとするものは、今のところ皆無だった。
(今日の二人はデェトか。いいね。幸せだねえ)
三枚目のせんべいを咀嚼するツキミに、苦笑を浮かべながら思う。加賀男も真鶴も、多忙の中でやっと取れた休息だ。二人を邪魔することは、もう二度としたくない。
「で? 真鶴ちゃんがどうしたんだい。熱でも?」
「ふぁむひうまむめう」
「危ないよ。食べ物を口に入れたまま話すのはやめたまえ」
ツキミはコクコク頷き、小さな喉を鳴らして嚥下した。近くにあったみつやの湯のみを気にせず手にし、残ったほうじ茶すらも飲み干してしまう。
「ぷは。おいしいですの」
「そいつはよかった。で?」
「そうですの。ひいさま、ぼーっとすることが多くなりましたの。どっか遠くを見てる気がしますの」
「ぼーっと? 熱でも出てる感じかい」
「ウチが『平気ですの?』って聞いても、笑って流されますの……顔は赤いですの」
「顔が赤い、ぼーっとしてる、か。それだけなら風邪の症状っぽいけど」
なんとも言えず、みつやは唸った。判断するための材料が少なすぎる。本人に聞いた方が早いか、と天井を仰いだそのとき。
「星帝さまと話したりしたあとに、必ずそうなりますの」
「え」
それは、と固まる。恋の病という単語が、さっと頭に浮かんだ。だが、ツキミは完全に落ちこんだ状態でしょんぼりとしている。
「ひいさまの元気がないと、ウチが悲しいですの。病気だったら大変ですの……」
「ツキミちゃん、大丈夫。これ、ぼくの出る幕がない状態だから」
「お医者のみつやさんでもだめですの?」
ああ、と笑って両手を振る。なんと答えようか、非常に悩ましい。恋や愛の概念をまだ知らないだろうツキミに、どう話せば理解してもらえるだろうか。
「みつやさんでだめなら、かかさまに話しますの」
「待って待って。今説明するからさあ。うーん、そうだなあ……」
視線をふと、机へと戻した。そこにはせんべいがある。ピンと閃き、人差し指を立てた。
「ツキミちゃんは、食べものを見るとどうなる?」
「美味しそうってなりますの。釘付けになりますの。それしか目に入らないですの」
「このせんべいに対してもそうだろうけど。大福にせよあんパンにせよ、ツキミちゃんは好きだから、夢中になるんだよね?」
「なりますの!」
「それと同じ、似たようなことだよ。真鶴嬢は加賀男のことを思っていて、他のことが考えられないほど彼に夢中なんだ」
「……?」
「わかるかい? 夢中で、他の誰も目に入らない状態なんだ。もちろん、君をないがしろにしているわけじゃあないよ。ただ、お互いに心通じ合わせたあとだから。その喜びを真鶴嬢は噛み締めてるんじゃないかな」
加賀男が聞けば、せんべいと同じにするな、と目を細めたかもしれない。だが、上手いたとえが思いつかなかった。それに恋愛のあれこれを、まさか自分が教えるわけにもいくまい。こういうことは、頭ではなく心で覚えていくものなのだから。
「……」
ツキミはみつやから視線を外し、せんべいをじっと見つめている。
「ウチ、食べもの食べたら、幸せになりますの。美味しい、嬉しいってなりますの」
「うんうん」
「ひいさまも、星帝さまのことを思って幸せ、ってことですの?」
「そのとおりだよ。加賀男も真鶴ちゃんも、今はお互いに幸せなんだ」
ツキミの顔がみつやへ向いた。その頬は紅潮しており、瞳もまたきらめいている。
「なんかウチも嬉しいですの! 病気じゃないなら安心ですのっ」
「……いい子だねえ。ツキミちゃんは」
人の出来事を自分のことのように喜ぶ彼女に、思わずみつやも笑みを浮かべた。彼女の素直さ、純粋さ――それらはもう、自分が遙か昔に失ったものだ。
「えへへ。ひいさまも星帝さまも幸せ。よかったよかったですの」
足を揺り動かしながら、ツキミは机の上に半身を預けて寝そべった。顔はとろけている。二人のことを心から案じていないと浮かべられない笑みに、みつやも自然と微笑んだ。
(ぼくもまだ、こんな単純なことで笑えるんだなあ)
――今日はまた、いつもよりも平和な日だとしみじみ感じつつ。
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