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3.犬猿、ならば犬と狐の仲はどう?(らんと銀冥)
らんは、正確にいうと犬神ではない。真神――御神犬と呼ばれる、立派な信仰対象である。犬神は憑き物筋の家系などを指すと同時に、人に使役される式神の意だ。蠱毒という呪術から生まれるともされている。
しかし、自負しているように、そして影ヶ原の四人長を務めているとおり、彼は武蔵御嶽神社や三峯神社で祀られている高貴な存在であった。
そんな尊いお方は現在、むすっとした顔で青果店の品物を睨んでいる。
「あ、あのぅ、らんさま……」
「沈黙は美徳」
「はいっ」
青果店の主人、式神として作られた存在の犬神は瞬時に口を閉じた。
だが、主人――名を律という――は、疑問に思う。わざわざ長が何用で、神代の隅にあるちっぽけな店に来たのだろうかと。何かしでかしてしまったのか、とも考えたが、皆目見当もつかない。
当然冷や汗をかく律の眼前で、らんは腕組みをしたままだ。銀色の耳と尾はときおり、微かにぴくりと動くも、青い瞳と軍服に包まれた細い体は身動ぎもしない。
律の緊張が否応なしに高まった。律が神代と怪里の境界近くに店を出して、まだ半年。それでも新鮮な水菓子と野菜の質には自信がある。神代の中心からも客が来てくれるほどだ。少しずつだが、店の名も有名になりつつあった。
逆にいえば、長であるらんが直に来るというこの状況、絶好の機会なのかもしれない。普通の商売人ならそう思えただろう。だがあいにく、律は小心者だった。ノミの心臓の持ち主だった。
「りんご」
「はひっ」
緊張の糸が切れそうになる直前、仏頂面でらんが言うものだから、律は直立不動で上擦った声を上げてしまう。
「その赤いものは、りんご。違いないな?」
「そ、そうです、りんごです……」
律はらんが無造作に指差す先を見た。そこには特殊な経路で入荷している、青森のりんごが数個、鎮座している。
「なぜそんなに大きい」
「や、あの、やはりあの、野りんごではない、ですから……」
「りんごはりんご、そうではないのか」
「い、いえ。これは、西洋のりんごを栽培したものでして。野りんごはこの日の本固有の種を指しますけども、最近じゃめっきり、栽培したものをりんごと呼びまして……」
汗をかきつつ、律は身振り手振りが大きくなるも、なんとか答えることができた。
明治時代に米国から、とある人間が購入した七十五種のりんごの苗木。はじめて植えられたのは東京の青山官園で、そこから全国的に栽培が広まったとされている。
青森に渡ったりんごの話も頭の中にはあるが、すっかりと抜け落ちていた。
「……のか」
らんの瞳が細くなり、ますます剣呑な雰囲気になる。
ああもうだめだ、ワイはここで終わるんだ、と半泣きになりながら、律は首を傾げた。
「は、は、はひ……?」
「美味いのか、と聞いている」
「そ、そりゃ」
自らの店に置く品物で、まずいものなんてない! などと心の中で商売人の魂が叫んだが、緊張のあまりに上手く声が出せない。不機嫌そうな視線で見つめられ、足をただただ震わせていた――そのとき。
「なんぞ、犬神ではないかえ」
「む」
怪里方面の道に、橙色の狐火が浮かんだ。中には一人の男の姿がある。炎から姿を現し、音もなく地面に足をつけた存在――衣冠姿が特徴的な男は紛れもなく、怪里の長・九尾の銀冥だった。
「銀冥。なぜここにいる」
「何、風の噂でそこな店のことを聞いたのでな。見に来たまでのことよ」
檜扇で口元を隠し、笑いながら銀冥は、つと目をまたたかせた。
「なんじゃ、なんじゃ。店主が縮こまっておるわ。何ゆえか?」
律は今度こそ、言葉を出せずに固まってしまう。らんだけではなく、銀冥もまた、この店になんの用があって来たというのだろうか――長二人と一堂に会し、頭の中は混乱の極みにあった。
「まあよいわ。店主よ、めろん、なる水菓子がここにはあると聞いたのだがのォ」
「なんだそれは」
「ぬしは知らぬのかえ? マクワウリとは違うものでな、ウリだというに、非常に甘美という物珍しい食べものと聞いた」
「……はっ、銀冥! 貴様まさか」
「ほほほ。星帝どのへの貢ぎものは我の勝ち、かのォ」
「店主ッ! 銀冥には売るな!」
「ひぇっ」
いきなり声を荒げられ、律は全身を震わせた。なぜ星帝さまの名前が出るのか、一体何がこの二人の間で起きているのか、それすらわからない。
「ほんに器がちっこい男だのォ……まあいい、めろんを全部買わせてもらおうかの」
「くっ。ならば、りんごだ! この店のりんごは全て俺が購入する!」
「そ、れは」
血気盛んとなったらんに怒鳴られ、しかし律は商売人としての矜恃だけでなんとか意識を保った。
「だめです」
口から出たのは拒否の言葉だ。きっぱりと、思った以上にはっきり述べた台詞に対し、らんと銀冥が眉を釣り上げたのがわかる。
「何!?」
「なんぞなんぞ。客にものを売らない、とは?」
律はすでに半分、意識を常世に飛ばしながら、ええいままよとばかりにまくし立てた。
「水菓子を求めて来てくれるお客人は、他にもおります。ワイはその人たちにちゃんと、分け隔てなく売ってやりたい。野菜もそう、水菓子もしかり。な、何があるかは存じませんが、買い占めるならちゃんと取り置きしてから買ってって下さい!」
叫びの余韻を残し、場が一気に静まりかえった。フクロウの泣き声が、響く。
終わったな、と律は笑う。長二人に対して説教がましいことを述べただけでなく、売ることを拒否するとは。自分でも驚きの気概を示したではないか。
剣呑極まりない、らんの瞳。不機嫌そうな銀冥のおもて。二つを見ても、律は決して持論を曲げる気はなかった。例え、ここで命が終わったとしても。
だが――
「……一理」
軍服の襟を正し、ふ、と長い呼気を吐いたらんがうなずく。
「店主。つい血気盛んになった。謝罪する」
「そうさな。突然現れ、買い占めようとするのは間違いだったのォ」
「へ」
律は間抜けな声を上げた。それをよそに、らんと銀冥は互いにバツの悪そうな顔をしている。
「買い占めなければ……一つ程度であるならば、よいか」
「へあ、へ、まあ、そりゃ、はい」
「我もそうさせてもらうかのォ。なかなかに勢いのある言葉、老体にはこたえる」
どこが老人? と銀冥の言葉に律は思ったが、あえて追求はしなかった。
……それからどんなやりとりがあったのか、ほとんど記憶に残っていない。ただ、りんごとめろんを一つずつ、らんと銀冥が買っていったこと、どうやら命は無事だったということははっきりしている。
それから少しののち、どうやらあの二人は『星帝さまに送るための水菓子』を探して各区画中を探索していたという事実を、他の客から聞いた。贈呈された星帝さまは、結果的に両方をえらく気に入ったらしい。
「なんや、長さまたちは仲、よかったんやなあ」
もし、らんと銀冥がその場にいたなら、もの凄い勢いで律の言葉を否定しただろう。
長であるらんの命により、立派な商店に建て替えられていく自店舗を見つつ、律は一人、したり顔でうなずくのであった。
――そんな彼が、噂を聞き、ふらりと立ち寄った星帝さまとその婚約者さまに会い、失神するのはまた別の話である。
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