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本棚に追加グリーンノートの香り
「追いかけて来る訳ないか……」
一人お店を飛び出し、雑踏の中に紛れ歩く事数分。背後を振り返り、誰も自分を追って来ている様子がない事を見て、街路樹の縁石に腰掛ける。
「本当、何やっているんだろ、私……」
ぽつりとつぶやいた言葉をかき消すように、冷たい風が色づき始めた葉を揺らす。
赤ワインをやけ酒したというのに、酔いは醒めかけている。
いいや、酔いは醒めていないのだろう。むしろ、走ったせいで、酔いは益々悪化しているようにも感じられる。あの場を逃げ出したというのに、心の中に溜まった澱みは晴れることはない。こんなにも心が暗く沈んでいるのは、酔いのせい。そう考えなければ、自分の心は壊れてしまう。
妹と社長の会話に嫉妬して、当たり散らしてしまった。
目を見開き、唖然とした表情で私を見つめていた社長の顔を思い出し、胸が締め付けられる。
きっと、呆れられた。
お門違いの八つ当たりをして、あの場をぶち壊した私は、大人の女性とは言えない。癇癪を起こした子供と同じ。こんな幼稚な私を誰が愛してくれるというのだろうか。
だから誰も追いかけてきてくれない。
本当、わがままな子供と一緒。誰も悪くない。全て悪いのは、私……
びゅっと吹いた冷たい風に、パーカーの前をかき合わせる。
あの家には帰りたくないな。妹のいる家には。
今日は、ビジネスホテルでも取ればいい。明日からの事は、また考えればいい。きっと、どうにかなる。
そんな気持ちを胸に雑踏の中を歩き出した私は、背後から近づく人物の存在に気づいていなかった。急に腕を掴まれ反射的に振り向いた先に居た人物を見つめ、唖然と立ちすくむ。
「――社長……」
「清瀬さん! やっと見つけた」
来てくれるなんて思っていなかった。それだけ酷いことを言ってしまった自覚もある。
理性ある大人にあるまじき行動に幻滅されたと思っていた。それなのに、彼は来てくれた。
社長が目の前にいるという現実に、澱み暗く沈んだ心が晴れていく。
「どうして――」
「どうしてじゃ、ない! 無理な飲み方して、そんな軽装で飛び出したら心配にもなるだろう」
「でも、私……。社長にひどい事言いました」
「ひどい事?」
「えっと、そのぉ。社長の推し活が迷惑だとか、なんとか……」
「あぁ、あれか。まぁ、本当の事だからな。清瀬さんに甘えていたのも事実だし、君の立場を考えたら酷な要求をしていたなとも思う。こちらこそすまなかった」
『鏡レンナ』と私が姉妹だと知らなかった以上、社長に落ち度はない。ひどい言葉を投げつけたのは私だ。それなのに、こちらを気遣う言葉をかけてくれる。本当に出来た人だと思う。
「社長が謝る必要なんて何も無いです。そもそも、私と鏡レンナが姉妹だなんて知らなかった訳ですし、私がファンだと勘違いしてたなら同じファン同士、推し活に協力しようとなるのは自然の流れと言いますか」
「ははは、確かにな。『花音』のマスコットを持っていたら勘違いもするか。ねぇ、清瀬さん――」
「えっ……、何です、か――」
笑みを消し、真剣な面持ちでこちらを見つめる社長の様子に、脳内で警報音がなる。これ以上、聞いてはダメと本能が訴える。
「――清瀬さん。『花音』の正体は、本当に『鏡レンナ』なのだろうか?」
「花音の正体……、鏡レンナ以外に誰がいるって言うんですか」
「……君が言うなら、そうなんだろう。ただね、さっき妹さんと話して感じたんだが、彼女からは『Vチューバー花音』として配信している姿が、どうしても想像出来ないんだ。妹さん、美春さんだっけ。さっきの彼女は鏡レンナではなくて、プライベートの美春さんだろ。それなのに、鏡レンナの時と印象が変わらないんだ。花音としての配信が彼女の素と言うなら、さっきの美春さんとは印象が違う。俺の思い過ごしだろうか?」
『鏡レンナ』の正体を知ってなお、社長は『花音』の正体に疑問を投げる。『花音』は美春ではなく、別の誰かではないのかと。
消えかかった心の火が徐々に大きくなり、心を熱くさせる。
『花音』は私なんだ。貴方の探している『花音』は、目の前にいるのだと言いたい。
『花音』は美春ではない、穂花なのだと告白したら、社長は私の想いに応えてくれますか?
「あの、あの……、社長――」
「――きっと、『鏡レンナ』が俺の探している『花音』なんだろうね」
鏡レンナが俺の探している花音――、その一言に心が急速に冷えていく。
私、何やってるんだろう。自分が『花音』だと告白できる訳ない。ただの影武者なのだから……
「そうですよ。『花音』の正体は、『鏡レンナ』です」
自分で吐き出した言葉が刃となり、傷ついた心が血を流す。
「そうか――。じゃ、清瀬さん送っていくよ」
「送っていく?」
「あぁ、家まで送っていく。酔っ払いを一人放置する訳に行かないだろ?」
茶目っ気たっぷりに片目をつぶる彼を見て思い出す。
そうか……、私酔っているんだ。だったら――
「――颯真さん。帰りたくない」
彼の胸に額を預け、背に腕を回しキュッと抱きつけば、彼の纏うグリーンノートの香りが鼻腔を抜け、荒ぶった心を少し落ち着かせてくれた。

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