転落 1

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転落 1

 地底世界、二区ユニオン・ユースティティア。一区から民と領土を守るために新設された治安維持部隊本部の最奥にKはいた。荒れた机の上を秘書が片付けるのを片目に、合わない経費の計算用紙を両手で丸めて放り投げる。また新しい紙を引っ張り出して机に広げ、墨木(すみき)の枝に取れかけた布を巻き直した。地底世界で最も安価な筆記具である墨木は世界の端の崖に生える小さな木で、崖の主成分である変成炭をこれでもかと吸い込んだ真っ黒な肌が特徴的だ。樹皮を剥ぎ、持ちやすいように削って布や紙を巻くと長持ちするペンになる。樹皮から取ったインクを詰めて使う万年筆も一部には愛用されているが何しろ高価なもので、書き殴るには勿体ない。  布を巻かないと墨が手につき、真っ黒になってしまう。Kは手が綺麗なのを確認して表に指を滑らせ確認すると、新しい紙に計算を始めた。 「っだあああ! 支出が合わない! ティル、各班から貰った資料は本当にこれだけですか」 「はい」 「本当に!?」 「はい」  頭を抱えてもう一度枝を持つが、やっぱりお菓子一箱分程度の額が合わなかった。Kは秘書のティルから貰った各班の収支合計を穴があくほど見て髪をぐしゃぐしゃに掻き回し、ついに部屋から出ていってしまった。  靴音を廊下に響かせながら向かったのは部下の元ではなく敷地の外だ。消えかけた南星を背に、胸いっぱいに空気を吸って口を「ウ」の形に開く。 「ふざけん……はあああ!?」  突如空の一部が黄色く光り、豆粒程の物体が剥がれ落ちようとしていた。声を上げたのはそれが人間の形をしていたからだ。世界一高い場所から落ちて助かるわけが無く、何とかして衝撃を吸収して助けなければならない。Kは歯の隙間から息と覚悟を短く吸い、手すりを飛び越えて落下中のそれに意識を向けた。 (飛んだ方が早い)  一瞬にして戦闘モードに切りかえ、走りながら一段と強く地面を蹴ると周囲の魔素を操って空へ駆ける。それでも落ちる方が早いと見えたので、更に別の権力を上掛けして風を切って飛んだ。  前髪が全て後ろに流れ、致死量の空気を顔に浴びて呼吸が出来ない。落ちる人は重力に引っ張られて加速し、怪我をしているのか血を流している。体から離れた血液は軌道を描くように空中に取り残されて昇っているように錯覚した。 「間にあえ」  Kは胸に右手をあて、さらにもうひとつ権力を重ねる。魔素を集め球を作り、放出すると周囲の闇が晴れて代わりに巨大な網が物体の下に出来上がった。影に形を持たせる、影水権(えいすいけん)だ。縦に重なる網を次々とちぎりながら減速し、六つめをちぎったところで何とか駆けつけたKに抱えられた。 「ゼロにぃ……?」  呟く。全身がどす黒く染まったその人は苦しげに何かを言おうとしたが喉から出たのはヒュウという掠れた音だった。前触れなく顔に大型の獣に引っかかれたような生傷が現れ、空中に残してきた血液が雨のように降り注いだ。 「っ、必ず助けますから、喋らず、意識を保って……保って!」  ブチリと嫌な音を立てて眼球が潰れた。獣はそこにいるはずなのに、実態がなく捉えられない。顔だけでなく手足も無惨に引き裂かれ、喰われていた。  その人を抱え地面まで降りると、道の上に寝かせた。全ての力を治癒に注ぐために目隠しを取って視界の上位互換として使っていた察近権(さっきんけん)を切り、何度か瞬きしながら手を怪我人の心臓へ向ける。その手から紫がかった白い光が溢れ、傷がどんどん癒えていく……はずだったが、治ったそばから獣が新しい傷を作り、元のボロボロな姿に戻っていく。無理やり引きずり出した意識はなんとか保っていてくれるが、いつショック死してもおかしくない状況だ。過剰な痛覚を受け続けると精神に異常をきたすが、外から治癒をしているのに内側から生を諦められては治癒士の名折れだ。 「なんですかこれは……」  改めて見るとその姿は酷いものだった。右手は中指が引き抜かれたように無く、左手も親指の付け根から手のひらの間にかけて獣に食いちぎられている。両手首には爪を立てられ、剥がれた皮膚の下から絶え間なく血が溢れ出していた。足に至ってはもはや見る影もなく、膝から下は折れた骨に食べ残しがへばりついているだけだった。  地底で最も治癒の上手いKの力を持ってしても助けられるのは瀕死の重症を負ったものまでで、治癒よりも早く作られる傷に対応できるものでは無い。額に汗を浮かべて全身に治癒をかけていたが次々と増えていく見えない獣の傷に蝕まれていき、怪我人は傷ができる度苦しそうに喘いだ。舌を噛まないように自分のコートを破いて口に押し込んだが、食い破られてしまったので三重にした。 「今まで助けられなかった人はいません。大丈夫ですから、頑張って」  メキ、と音がして見ると今まさに右脚の骨が折れて潰されるところだった。こんな状態になっても意識を手放さないのは、Kが治癒で強引に繋いでいるからだ。普通は既に耐えられない痛みまで達しているが、Kが死ぬことを許していない。拷問の手法として使っている技を今は治療のために使っている。  埒が明かないと判断したKは全身治癒から切り替え、脳と胴体を守ることにした。その代わり四肢は放棄する。そんな状態で助かったとしてもその先の人生元通り生きられるはずは無いが、そんなことは頭になかった。必ず助けると言った以上、絶対に助けるのがKという人間だ。 「ティル、アーデアを呼べ」  隊長室にまだいるはずの秘書を遠く離れたこの場所から呼ぶ。権力はまだ全て治癒に回しているが、ティルの方が呼ばれたらすぐ反応できるよう探知していた。 「死神をユニオンに招き入れる行為はユニオンに対する裏切り行為です」  淡々とした声だけが帰ってきた。この状況が分かっていないのか、それとも分かっててそう言っているのか、動揺ひとつせず規約を読み上げる。 「隊長権限を使う、呼べ!」 「御意」  ティルの声はそれ以上聞こえなくなった。  治癒の方はと言うと、四肢を放棄したおかげで胴体と顔の輪郭がわかるようになってきた。顔面を四本斜めに走る大きな傷と裂けた口だけは治そうとするKと蝕もうとする謎の力が拮抗し治らなかったが、それ以外の細かい傷はほとんど消えて綺麗になった。胴体の方には元々それほど傷を負っていなかったようで、破けた服の下から白い肌が見えていた。  四肢はもう存在していないようなものだった。汗か涙か判別のつかない透明な液体がKの頬を伝い、「彼」のシャツにこびり付いた乾きかけの血に溶けた。  彼は浅い息を繰り返しつつもやや意識がはっきりしてきたようだった。頬についた長い黒髪を払ってやると縦に真っ二つになった瞼に微かな力を込めて目を開けた。 「……」  しかし、潰れた眼球は元に戻らなかった。
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