転落 2

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転落 2

 彼とKの目が合うことはなかった。意識はお互いに行っているのに、片方は深淵を覗くのみで、もう片方には何も映っていない。今度こそ流れ落ちたのは涙だった。 「へえ、ゼン・フリースヴェルグか」  Kの後ろから場に似合わない飄々とした楽観的な声がした。アーデアだ。Kの頭側に舞うように飛んで覗き込み、それから後ろに回って治癒を祈り続ける彼に囁いた。 「君にそこまでする義理があるのかい?」  死神(アーデア)の囁きにぴくりと肩を震わせる。その瞬間治癒が緩み、頬に五本目の引っかき傷ができた。歯を食いしばり集中するとその傷は大きくなる前に癒えたが、元々あった四本は広がらないようにとどめるので精一杯だった。治癒を放棄した四肢は肘や膝まで侵食しており、指は挽肉のように変わり果てていた。 「フリース……?」 「ああそうさK。これは感動的でいいものを見た。おおかた情が湧いたんだろうね、ゼンは君の大切な人によく似てる。違うかい? 言っておくけど人違いだよ」  アーデアは指の先で怪我人の指だったものをつつき、魚の形に整えた。 「人の命をなんだと思って……!」 「そりゃあ勿論、六十年ちょっとで簡単に死ぬ脆い物語だ」 「アーデア!」  今まさに死にかけている人を目の前に平然と鼻で笑うアーデアに殺気を放ち、斬り殺そうとしてその標的に制された。 「まあまあ、落ち着きなよ手元が狂うでしょ。私はルカの銘菓を手に入れたところでね、あんまり美味しかったもんだから君に会いに行こうかと思っていたところだ。そしたら偶然ティル君が私を呼びに来てね。嗚呼本当に気分が良かったね、君から招き入れてくれるなんて初めてのことだろう? 意気揚々と駆けつけてみたらゼンもいるんだ。なんて良い日だろうね。君に会えただけでこの地底が天国になったというのに、更にいい話が舞い込んでくるとはね、人生捨てたもんじゃないだろう? そうだろう?」  頭を血肉で汚れた手で子供のように撫でくりまわしながら、いつもよりも高い声で歓声をあげる。Kは瀕死の怪我人の前で浮かれるアーデアに何とか手を出さず治癒に専念した。今のところアーデアは邪魔しかしていない。世界最強のくせして貴祈権が使えないのに、それ以外でできる援護すらしていない。しかしKはアーデアに頼らなければならなかったのだ。こんな性格でも地底最強にして最年長のバケモノ。良く言えば図書館のような人間だ。 「ゼン、聞こえるかい? まずは自己紹介をしよう。地底世界へようこそ、私は死神にして君達地上人の神だ。名をアーデア・グティエレスと言ってね……ははっ、見た目によらず元気じゃないか君、そんなに私が憎いかい。そういうところはケインそっくりだね、彼もずっと私を憎んでいたから」  高らかに笑うと、前触れもなく腕の付け根から拳ひとつの所に指を当て切り落とした。綺麗になった断面からは拍動に合わせてだくだくと血が流れている。Kの祈りで零れた分を補充しているが、継ぎ足した傍から溢れ出していく。慌てて両手で傷口を押さえて出血を止めようとしたが、赤黒く染った指の間から濁流のように流れ出した。 「流石は世界最強治癒士様、これだけの傷を負って生きてる人なんて初めて見たよ」  ぽかんと口を開けたKは次の瞬間全身の毛を逆立て、こんどこそアーデアを攻撃した。 「集中しろ若造」  音より早く飛んできた黒いナイフを素手でたたき落としたアーデアは羽のように舞うと左腕、左足、右足と触れ、次々に落としていった。切り離された四肢はまるでそれ自身が意志を持った生き物のようにもがき、血塗れた地面を這いずり回る。治癒が行かなくなったことで呪いは急速に進行し、爪のようなものに叩き潰され引っ掻き回されとうとう四本全てが肉片ですら無くなった。  アーデアは見えない獣に潰されて挽肉になるまでを見つめながら、針状に仕立てた天井の破片を無数に打ち下ろした。即座にKが張った障壁を軽々打ち破り、針は地面に突き刺さる。しかし餌を喰う獣は止まることなく、ゼンの四肢は虚に喰われて消えた。  予想出来ていた展開に肩を竦め、死神はその場を離れる。いつもだったらこの辺で飽きが来てエキドナに帰ってしまうのだが、今回はまだ気力があった。それに贔屓にしているKからの頼みでは断るのも興醒めだ。地面や古木から生えた紫色の魔石のうち拳よりも大きいものを数個拾って戻ってくると、先程天井を砕いたのと同じ権力で叩き割った。 「ゼンには今何が起こっているんですか」 「無駄口を叩く暇があるのかい、なら割らなくて良かったかもね」 「いえ……」  無限に魔素がある地底とはいえ、こんなに長時間全力の権力を使っていれば枯渇する。だから魔素の凝縮体である石を割ったのだ、魔力欠乏の辛さはアーデアが一番よく知っていた。  Kには一連の出来事が全くもって理解出来ず息を荒くしているが、何度も深呼吸を繰り返し落ち着こうと努めた。死神はこの現象を理解しているが、自分は違う。泣こうが喚こうが頼るしかないと分かっていた。  ゼンは痛みを感じていないのか、四肢があった時よりも落ち着いた顔をしている。それが答えだ、アーデアの選択は正しかった。 「神ごときが……ゼンは心を選択したか。K、君は操身権(そうしんけん)を使えるね」  アーデアは獣が居る、いや居た場所をもう一度死体撃ちのように攻撃すると、表情をころりと変えてKの元へ戻り、優しく囁いた。  操身権は先程Kが使った権力だ。自他の体を操り、攻撃したり拘束したり、更に応用すれば空を飛ぶことも出来る。地底世界には空を飛ぶことができる人が何人かいるが、その全てが操身権の使い手だった。 「それ今関係あります?」 「質問に答えろ」  急に冷たく命令する声は死神の立場に相応しく、心臓を掴まれたような寒気に震えた。 「使えますよ当然でしょう! 私に使えない権力はありません、貴方と違って!」 「いちいち余計なことを言わない。全く誰に似たんだか」 「貴方には似てません!」 「おやおや、私の血を継いでる自覚はあるんだね」  ムキになって唾を吐くKだったが、治癒が使えないことを貶されたアーデアは怒るでもなく静かにため息をついた。 「わかりきってることを聞くけど、君はゼンを助けたいんだよね」 「わかりきってることを聞かれましたがそうですね」   焦れったく舌打ちをする血塗れの手はゼンの胸に触れ、もう片方は自分の胸の中心で固く握られていた。権力の発動には特別な呪文も所作も必要ないが、強い権力を使うためにはそれだけ心を込めなければならずそれ相応の「祈り」が必要となる。その多くが胸の前で手を握る行為になっていた。Kがこうすることなどほとんど無い。それだけ必死でやらないとならないほどの重症なのだ。  アーデアは暫し無言でその様子を見つめていた。 「K、ゼンはそのままでは生きられないだろうね。いや、命を救うことは出来るさ。でもそれだけだ」  Kは目をゼンに向けたまま耳だけを傾けていた。奥歯が鳴ったのはその意味を十分に理解している証だった。  四肢がなければ動けない。目が無ければ何も見えない。一日中付きっきりの介護士でもいれば生きられるだろうが、果たしてそこまでする意味はあるだろうか。そこまでして生きる意味は? 「K、君の四肢を落とせ」 「は? ……っ」  即座に理解したKは唇の皮を剥いていた。自分の四肢を移植しろと言っているのだ。そのためにゼンのものを落としたのだと理解するのにそう時間はかからない。確かにそうすれば動くことはできるようになるのは頭では分かっていた。アーデアは目が見えないだけならまだ何とかならないこともないと言っているのだ。しかしそうするとKは一生胴体と頭だけで生活することになる。 「自分の行動に責任を持て、若造。君は何もかも失った彼に祈るだけかい? 聖者にでもなったつもりかな」  腕一本たりとも失うわけにはいかない、と腕一本すらないゼンを見下ろした。呼応するように祈りは弱まり顔の傷が開く。血液が足りなくなるので集中するもさっきほどの力は出なかった。魔素の量が少ないからでは無い、心の問題だ。 「ゼンは君とは違って権力が使えない。君は持ってるんだろ操身権」 「持っ……てますよええ、私に使えない権力はありませんアーデアさんと違って! はいはいこうしろと言ってるんでしょ、回りくどい」  やけくそのように胸に当てていた右手を動かし、左肩へと当てた。しかしそれから先の思い切りがつかず瞬きを繰り返し荒く呼吸をするだけだ。  痺れを切らしたアーデアがKの右足の付け根を指さした。鈍い音がした直後マントが切れて下の布が露出する。 「貴方に足を持ってかれるなんてそんな屈辱ありません! 自分でやります」 「……まあいいけど、足を先にした方がいい。切ったら操身権で血管を繋ぎ合わせるんだ。あとは……残念だ、君を祈ってやれる人がいない」  嘲笑う。腹が立ちつつもまだ辛うじて冷静さを保っているKは一呼吸の間にすぐ呼べる治癒士をリストアップし、彼を呼んだ。 「ティル、聞こえますか。一班長を至急ここに呼んでください」 「御意」  一班は治癒や援護を専門とする治安維持部隊の班だ。その班長であるセドリックはKには劣るものの治癒の腕は確かで、信頼のできる部下だった。しかし彼が来るまでずっと集中していなければならない。だんだん精神力が切れて傷が開く度にアーデアはKを叱りつけ、Kはそれに噛み付いた。
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