翠眼島の怪事件

プロローグ

　小学校の図工の時間に、自分の夢を絵にするという授業があった。
　クラスメート達は消防士や保育士になった未来の自分の姿を描いたが、和恵は違った。
　海に囲まれた崖の上に建つ、白い家を描いた。
　——大人になったら海が見える家に住みたい。
　海は和恵の憧れだった。

　絵の具が乾く前に次の色を塗ってしまい、黒い崖と青と緑で描いた海が混ざって滲んでしまった。
　そのため崖に大きな目玉のような模様が出来てしまい、和恵の絵を見た女の子たちは気味悪がった。
　だがそれは和恵のお気に入りの絵となった。
　——他には何もいらない。私はこの家が欲しい。　

　和恵の家は東京郊外の巨大な団地。
　ヒットしたアニメで、山を削り狸を追いやった場所として有名になってしまい、自分の生家を話すのがためらわれた時もあった。
　金の卵ともてはやされた祖父と満州生まれの祖母が無理して購入した部屋は、祖父が亡くなり父の代になってもローンが残っていた。
　エレベーターのない五階建ての建物は時代と共に人が減り、和恵が成人する頃には年寄りばかりとなった。
　社会人となった和恵は一人暮らしも考えたが、家賃や光熱費を計算すると手元に残るわずかなお金でやりくりするよりは、片道一時間半の通勤の方がマシな気がした。
　妹の朱美が先に結婚して家を出た後も、老いた両親と朽ちていく団地に和恵は留まり続けた。
　賑やかな都心に通勤して、寂れた団地に戻ると自分の一生もこのままこうして華やいだこともなく終わっていくのかと、やりきれない気持ちになっていったが、そんな感傷も若い頃だけ。
　心は鈍化していき、両親を看取った時、和恵は四十を過ぎていた。

　親の遺産を得た和恵は会社を辞めた。
　親たちは手堅い企業に長年投資を続けていた。その額は和恵が今の生活水準を百歳過ぎまで続けられるほどになっていた。

　日本国中を一人で旅し始めた和恵が、翠眼島(すいがんじま)を見たのは、偶然だった。
　島巡りのフェリーから、それを見た時、和恵の身体に衝撃が走った。
　小学校の時に自分が描いた絵、そのままの景色がそこにあったのだ。
　青い波、黒い崖、白い家。
　和恵は予定を変更して、翠眼島に向かった。

　和恵には奇妙な確信があった。

　——この島は私を呼んでいる。私はこの島に住む。

『朱美ちゃん、私この島に移り住んで本当によかった。毎日がすばらしく充実しています。島のペンションの仕事も、どうにか慣れてきました。料理の腕も上がりましたよ。
　週末以外、ほとんどお客様が来ないのんびりした所ですが、長期滞在の方が一人だけいます。部屋に籠もりっきりの方で、私はまだ顔を見たことがありません。
　よかったら一度泊まりに来ませんか？　私の妹なら特別見晴らしのいい部屋を用意するとオーナーが言ってくれています。　　和恵』

　朱美は手紙を封に入れると、ショルダーバックの中にしまい、大きなスーツケースを引いて家を出た。
　行き先はもちろん、翠眼島だ。