彼氏が風邪を引きまして。

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 翌朝。普段使いしている丸眼鏡を掛けヘアバンドで長い黒髪をぴっちりと後ろへ流し膝丈のキュロットスカートにゆったりした七分袖のシャツでノーメイクと、おおよそ普段着に近い服装でまとめ、大きめのキャスケットを目深に被って家を出る。  デートであればバチバチにキメていくフミだったが、今日の目的はそうではない。日常の延長としてお邪魔するのだから華美で扇情的な服装は避ける。  意識の隅には「密室でふたりきりなのだから」という理由もあった。  自分の気持ちを無視して狼藉を働くような相手でないと信じているが、だからこそこちらから煽る真似は彼に対して不誠実だとフミは考える。  道中あらかじめ調べておいたコンビニ、ドラッグストア、スーパーで買い物を済ませて彼の部屋の前に立つ。人並み以上に発育のよい胸元に手を当ててひとつ深呼吸。声も出さずにチャイムを押して返事も待たず合鍵を挿して回す。 「お邪魔します」  小声で囁くように呟いて後ろ手に鍵を閉めたところでワンルームの居室から顔を覗かせたオサムと目が合った。 「え、フミ?」 「見りゃわかるでしょ。というか勝手に部屋に上がってくるほかの女の心当たりでもあるわけ?」 「いやないけど……」 「冗談、お見舞いよ。お、み、ま、い。いいからアンタは横になってて」 「お、おう」  まだ熱があるのだろう、少しぼんやりした顔で困惑しているオサムをフミが上目遣いに睨んで促すと、彼はすごすごと奥へ戻りベッドに転がった。 「朝ご飯は食べたの?」 「いや、そろそろなんか食わねーとな、とは……」  買ってきたスポーツドリンクのキャップを緩めてオサムの枕元に置くついでに顔を覗き込む。ここまで見るからに調子が悪そうな彼は初めてだ。今日来たのは正解だった。 「あっそ、じゃあ用意するからそのまま転がっててちょうだい」 「……わりい」 「別に悪くないわ」  キッチンに立って買ってきたもので勝手に調理を始めたフミが変わらぬ澄まし顔をひょいと居室に出して言う。 「今日のアンタは私に非日常の経験を提供する係だから。わかったら大人しく看病を受けなさい」 「へいへい、仰せのままに……」  申し訳なさそうにしていたオサムは吹っ切れたように半笑いを浮かべて目を閉じた。彼女の立てる耳に障らない程度の、角のない生活音が眠気を誘う。いつの()にかウトウトとし始めたところでふわりと食べ物の匂いが鼻を掠めた。薄っすらとまぶたを開くとベッドの縁に腰を下ろしたフミが今にも鼻を摘まもうと手を伸ばしているところだった。 「なにしてんだ?」 「寝てるのかなと思って。でも悪いけど起きて貰うわ。少しでもお腹に入れて薬を飲んでちょうだい」  珍しく気まずそうな薄ら笑みを浮かべたフミを珍しいなと思いながらオサムが身体を起こすと粥の入った口の広い椀を手渡された。 「自分で食べられる? 今日ならしてあげてもいいわよ」  普段ならそこまで露骨ないちゃつきにはあまりいい顔をしない彼女が突然そんなことを言い出したので一瞬言葉に詰まる。 「ね、熱でもあるの……か?」 「あいにくだけどアンタだけよ」  膨れた顔になったフミがオサムの手からレンゲをもぎ取ると粥をひと掬いしてふぅふぅと息を吹きかけて冷ます。 「はい、なさい」 「そんな命令形の生まれて初めて聞いたよ」 「そう。貴重な体験をしたわね」  それは本当にそうなのだが……複雑な気持ちでひとくちまたひとくちと差し出されるままに食べているうちにそこそこの量の粥が詰め込まれ、続けてフミの買ってきた薬をスポーツドリンクで流し込む。 「はあ……助かった。生き返る……」 「なに言ってんのアンタ全然死にそうな顔してるわよ」 「心がな、生き返るんだ……ありがとう」 「あ、そ」  フミは不機嫌そうな顔で赤面してしまったがこれはどちらかと言えばいい反応だとオサムは知っているので気にはしない。が、しかし。 「じゃ、寝汗を拭くから寝巻を脱ぎなさい」  続くイベントに度肝を抜かれることになった。 「脱げってオマ……」 「どうせ昨日からシャワーも浴びてないしそんな体力も無いでしょ。不衛生は病気の大敵よ。それに」 「それに……?」 「正直ちょっと(にお)うわよ」  自分の彼女から真顔で言われては、発熱で気力が減退していたせいもあるのかもしれないが、オサムには「はい」と虚無に近い表情で答えるしかなかった。
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