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一話 夏の湯
「誰か! 松の間のお客さんが呼んでいるから行って」
「はい!」
先輩仲居の呼びかけに露子は応え、廊下を進んだ。朝食後、荷造りをして帰る客で旅館は大忙しである。露子は松の間にやってきて客に尋ねた。
「お客様。お呼びでございますか」
「すまないね。風呂場に櫛を忘れたみたいで」
「櫛ですね。今。見てきます」
露子は風呂場に向かった。鯖湖旅館は長期滞在している客が多く、この時間も客が入っている時間帯である。露子は脱衣場の忘れ物が入っている籠を確認した。
……五つもあるわ。だったら。
露子はここにある櫛を全部、手拭いに包んで松の間に戻った。客はこの中の一つに自分の櫛を見つけた。
「ありがとう。古いけど、これは大切な櫛なのよ」
「こちらこそ。またどうぞお越しください」
残った忘れ物の櫛は女物である。露子は廊下を進みながら各部屋の女客に尋ね歩いた。
「もしかして。こちらはお客様のものでは?」
「そうよ! ありがとう。よくわかったわね」
「たまたまです。では、これで」
お辞儀をして部屋を出た露子は振り返った。
「なぜわかった」
「きゃあ」
背後にいた武に露子はびっくりした。武は大きなやかんを持ち、露子に感心していた。
「なぜって。それは」
「名前なんか書いていないだろう」
露子は武と廊下を歩き出した。
「髪の毛がついていたの。今のお客様は白髪だし。さっきのお客さまはパーマがかかっていたし」
「へえ」
「あとは、雰囲気でなんとなく」
「なるほどな」
……確かに。細かいところを見ているんだな。
露子の観察力の凄さに武は、今更納得していた。
……だから。親父は露子を信頼して、商売相手を判断していたんだな。
父がうまく商売をしていたことを武は思い出していた。父との接点が少なかった武は、亡き父を悲しむよりも事業を経営していた実力を尊く思っていた。
「それよりも武様。朝ごはんを食べましたか」
「露子。名前」
「あ? すみません」
むっとした武に露子は慌てて謝った。
「武さん。ですよね。ごめんなさい」
「……罰だ」
「え」
驚き顔の露子に武は微笑んだ。
「嘘だよ? 露子、飯は一緒に食べるぞ、いいな」
「は、はい」
肘で突いた武は台所に行った。露子はドキドキの胸を抑えていた。
「露子。ねえ」
「はい、姉さん」
露子の背後にはお盆に湯呑みを乗せた仲居がいた。
「かっこいいよね。武さん」
「そ、そうですね」
先輩仲居は頬を染めた。
「うちに来るのだから、どうせ訳ありなんだろうけどさ。滅多に見ないような色男だよね」
「……そ、そうですね」
「『そうですね』ばっかりじゃなくて。露子ちゃんもそう思うでしょう」
「わ、私?……」
恥ずかしさで赤面した露子を先輩は笑った。
「ふふふ。やっぱりね」
「私、片付けに行きます」
顔を隠すように露子はこの場を去った。胸はまだドキドキしていた。
……かっこいいって。それは、昔からだけど。
堀田家にいた時の武は、勉学に勤しみ剣道に打ち込む青年だった。露子はずっと武に憧れていたが、年上の優しいお兄さんいう印象だった。だが温泉にやってきた武は男性らしい魅力に溢れており露子は冷静になろうと必死だった。
……武さんは任務で来ているのよ。私は邪魔しないようにしないと。
武を慕ってはいけないと心を収めた露子は、朝ごはんがある食堂にやってきた。食事は鍋に入っており、各自で器に盛り付けて食べることになっている。露子はお盆を取り、自分の食べる分をお椀に盛り付けようとしていた。
「露子。僕の分もお願い」
「信さん。いいですよ」
露子の背後には下足番の信が疲れた顔で立っていた。信は最近入った青年である。女将の話によれば、旅をしていた信は、金を盗まれて困っているというので雇ったということだった。信にとって露子は最近入ってきた仲居になるため、信は露子に気兼ねなく頼み事をしてくるのだった。
「はい。これくらいでいいですか」
「味噌汁はもっと。なぜだか最近の味噌汁は美味しいんだ」
「そう、ですか」
……嬉しい! ふふふ。
鯖湖温泉に戻ってからは露子が味噌汁を作っている。これを知らずに話す信の感想が嬉しい露子は、彼に白米やおかずも皿に盛って渡した。
「露子姉さん。あの席で一緒に食べよう」
「え。あの、その」
「ちょっと待った……」
「うわ」
額の汗を拭った武が二人の間に割って入ってきた。露子は驚き、信は眉間に皺を寄せた。
「何を待つのかな、新人さん」
「新人ね……」
信の態度に武は腰に手を置いた、
「新人でもこっちは君よりも年上だよな?」
「年上でも何でも、ここでは俺が先輩です」
武と信は睨み合った。この様子に露子はハラハラした。
「……あの。ご飯が冷めますよ」
「あ」
「おっと」
困っている露子の声に信と武は冷静になった。
「二人とも。早く食べて仕事に行かないと」
「わかっているさ」
「そ、そうとも」
この時、そばで食事をしていた仲居が声をかけた。
「あら。席が無いの? 信君、ここどうぞ。さあ、早く」
「は、はい」
仲居に則された信は仕方なく近くの席に座った。露子はその間、武の食事の支度をした。
「どうぞ」
「ありがとう。すみません? そこ、いいですか?ちょっと仕事の話があるので……」
武は露子と同じ卓で食事を始めた。
「ほら、食え。時間がないぞ」
「は、はい」
挨拶をした武は黙々と食べ出した。対面に座る露子はこの食欲に驚いていた。
「うん! この味噌汁! 最高!! なあ、これってお前が作ったんだろう」
「どうしてそれを?」
武はニヤッと笑みを浮かべ、ヒソヒソと話した。
「俺はな。実家にいた時、これだけが毎日の楽しみだったんだ。やっぱりそうか。糸子義姉さんが、作ったと言っていたけれど」
「…………」
……糸子さん。糸子さんだけは私を信じてくれたっけ。
堀田を思い出し露子は暗い顔を見せた。笑顔だった武は露子を知り焦った。
「すまない! と、ところで、あの信って何者だ」
「旅の途中でお金を取られてしまったので、女将さんが雇っているって」
「旅? ……ふーん」
武が見ると、信と目が合った。武が目力を飛ばしているが、気が付かない露子は食べながら語った。
「女将さんは優しい人だから、そういうことはよくあるみたいですよ」
「しかし、ずいぶんお前と仲が良さそうだな」
「歳が近いので、そう見えるだけで、え? もう食べたの」
たくさんあった料理は見事に消えていた。驚く露子に武は平然と答えた。
「おかわりは自分でする。お前も早く食え」
「はい」
……武さんは変わらないな。
武は席を立った。武が通り過ぎる時にできた風に、露子は思いを馳せていた。
◇◇◇
「では。まず、飯坂温泉についてお話しします」
客が帰った昼さがり。露子は女将に言われて武に説明を始めた。旅館の裏手で飯坂温泉の歴史を語った。
「ここは北の三代名湯と言われています。そして奥の細道で有名な、松尾芭蕉が訪れていると言われています」
「へえ、本当なのか」
「……地元ではそう思っています。元禄二年。松尾芭蕉が入った温泉は、うちの鯖湖温泉です」
「すごいな」
「そうなんですよ。次はこっちです」
……楽しそうだわ。よかった。
信と対立していた武を案じていた露子は、歴史の話をした。
「我が鯖湖温泉は日本でも一番古い木造建築の建物と言われています。私は観光客から聞いたんですが、他の温泉建物は漆喰などでできているそうですね」
「確かに。ここは本当に木造だからな」
武は壁に手を置き、屋根を見上げた。露子も一緒に見上げた。
「立派な建物だよ」
「火事の被害がないせいもあります」
「なるほどね」
楽しそうな武の横顔に露子も嬉しくなった。
「ええと、あとは源泉についてです。こっちです」
「おう」
露子は裏手を進み、源泉の湯口を武に紹介した。飯坂温泉では源泉がいくつかあると話した。
「自分のところで持っている旅館もありますが、ほとんどが他の源泉を使わせてもらっています。でも。うちは一番古いので源泉を持っています」
「さすが老舗」
他にも露子は説明をした。武は納得しながら聞いていた。
「……以上が温泉の説明です。あとはお客さんの説明です」
この温泉地には病を治すための湯治で長期滞在する人も多くいると語った。
「湯治専門の宿は、お客様は自分で自炊して、皆さんで大広間で寝る感じです。でもうちの鯖湖旅館は、湯治のお客様も個室でお食事も出す旅館です」
……だからうちの親父もここで泊まっていたんだよな。なるほど。
資産家の父がここに泊まっていた理由を見出した武は感心していた。ここで武は露子に尋ねた。
「で、お前はここで仲居をしているってことか」
「そうです」
「その割には宴会とかにはあまり出てないんだな」
「お酒の席は、女将さんが心配するので、裏方をしています」
「そうか」
……色んな客がいるからな。
色白の顔で小顔の露子は愛らしい娘である。隣を歩く彼女の横顔を武は歯痒く見ていた。
中年の仲居が多いこの旅館で、若い娘の露子は目立っている。宿泊客に声をかけられないように女将が対策していることに武は嬉しく思った。
……俺も守らないと! ん。
「武さん。ラジウム卵を食べますか」
「なんだそれは」
源泉の湯気を背にした露子は笑った。
「これは、名物のゆで卵ですよ。そこで湧いている温泉で作っているんです。どうぞ」
「これ? ……ま、食ってみるか」
武が食べる様子を露子は嬉しそうに見上げている。武はパクッと食べた。
「うまい! ……味が濃いな。これは美味い」
「ふふふ。武さんは卵がお好きでしたものね」
……俺が好きなのは、お前なんだけど。
「武さん?」
まっすぐな露子に見つめられた武は頬を染めた。
「なんでもない。あとは、他には何があるんだ?」
「橋を案内します、少し歩きますね」
二人は鯖湖旅館を出て温泉街を歩いて行った。そこには浴衣姿で行き交う人たちは大勢いた。
「みんな……もしかし温泉巡りを入っているのか」
「そうなんです。銭湯がたくさんあるんです」
……湯治の客か……怪しい奴が紛れているかもしれない。
武は神経を尖らせながらも露子と十綱橋にやってきた。
「ここが温泉街を結ぶ橋です。そしてこの下、ちょっと高いですけど」
「おおお。こ、これは怖いな」
着物を掴んできた武に露子は微笑んだ。
「武さん?」
「お前が落ちないようにしているだけだ。そ、それよりあの舟はなんだ」
「昔は渡し船だったんですけれど、今は観光のお客様が舟から温泉街を見上げているんですよ」
「へえ」
そういう武は露子の着物を掴んだままである。露子は武の顔を見た。
……でも下を見ないようにしているわ。高いところは苦手だったのね。
「武さん。帰りましょう」
「お、おう」
二人は旅館を目指して戻り始めた。
「あ、待ってください」
「どうした……って、迷子か?」
露子は一人でポツンと立っている子供に駆け寄った。
「僕。どうしたの? お家の人は?」
すると男の子は母を求めて泣き出した。露子が宥めている間、武は辺りを見回した。
「くそ、人が多すぎでわからないな」
「大丈夫よ」
露子は男の子の身なりを確認した。手には汚れがついていた。
「ベタベタしているわ。これは……お醤油……お団子を食べたのね?」
「うん」
「武さん。向こうの団子屋さんに行きましょう」
露子の推理で三人は団子屋にきた。団子屋の主人は子供を覚えていないと語った。
「だよな……こんなに客がいるしな」
「でもこの辺だと思うんだけど」
「……ううう、お母さん」
「待ってね。ええと、この近くの旅館なら」
露子は思案していた。
「そうね……僕。僕が泊まっている旅館って、どんな玄関だったかな」
「玄関」
「うん……広くて赤い絨毯だった? それとも階段になっているかな」
露子の問いに武も膝に手をついて子供を覗き込んだ。
「……わかんない」
「じゃあね。温泉はどうかな? 木の大きなお風呂? それともタイルかな」
「露子。子供だからな、子供目線で聞いてみろ」
「そうか……じゃあね」
武の助言を受けた露子は仲居の着物の色を聞いた。男の子はウグイス色だったと話した。
「だったら、そこに大きなこけしがなかった? 入ってすぐに」
「あったよ」
「わかった。こっちよ」
「おう。坊主、こっちだ」
武は子供を抱っこしながら露子の後に続いた。すると、露子は後ろ姿の女性に声をかけた。
「もしかして。迷子をお探しじゃないですか」
「そうなんです、あ! 清。どこに行っていたんだよ」
彼女は母親だった。息子を抱きしめて露子達に礼を言った。
「よかったです」
「じゃあな。坊主」
「うん」
礼を言われた露子と武は一礼をして後にした。
「武さんのおかげで助かりました」
「……なあ、それよりもどうしてあの子供の母親だと思ったんだ」
多くの人がいたが、露子は顔も見ずに背後から声をかけている。武は理由が気になった。
「早足でキョロキョロしていたじゃないですか」
「そうか? 」
「はい。でもよかった。見つかって」
……俺にはわからなかった。やはり観察力がすごいんだな。
露子は無意識かもしれないが、彼女は周囲の人の気持ちを悟り、それに合わせて行動している節がある。
……今だって。母親がお礼をしようとしたのを遠慮するために、早く出てきたしな。
父が信頼していた露子が人を見抜く才能を、武は納得していた。
「……宿に着いたら休憩してください。私が長引いた理由を女将さんに話すので」
「なぜそうなる?」
「え? 疲れたんでしょう。だからそうやって黙っているのかなって」
……そうか、わかってしまうんだな。
気を遣われた方は楽かもしれない。だが露子がいつも気遣いをしていることを、武は可哀想に思えた。
「それはお前もだろう」
「え」
武は露子にそっと肩をぶつけた。
「あのな、俺には気を使うな」
「武さん」
「まあ、そうは言っても気を遣ってしまうのなら、俺がお前に気を遣ってやるよ」
「それは、困ります」
「うるさい。お? 疲れたんだな。どれ、俺が抱っこを」
「大丈夫です! 武さん」
「ハハハ」
笑顔の二人は鯖湖温泉旅館に戻ってきた。露子と二人で笑顔になれた武は胸が躍った。
……この笑顔を、絶対守らないと。
愛しい娘と歩く温泉街には、優しい湯気と温かい気持ちが揺れていた。
完
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