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「あーあ、負けちゃったか。はい、返すよ」
少年が私の手の平に赤い玉を乗せる。あまりにあっさりした様子に、私は拍子抜けした。
「い、いいの?」
「いいよ。楽しかったから。もう夏に思い残すことは無いくらい」
どこか覚悟を決めた様な口ぶりに、私はドキリとする。
「思い残すことって……君は生きているんでしょ?」
「一応ね。でも、どうなるか分からない」
それから少年は、弱弱しい声で、ゆっくりと自分の事を教えてくれた。私は消えかけの線香花火を見守るように、少年の言葉に耳を澄ます。
少年は難しい病気を患っており、ずっと入院生活を送っているらしい。秋に手術を控えているが、確実に成功するわけではない。失敗すればそのまま目覚めないかもしれないというのだ。
「そんな……」
だからこの少年は、夏を終えたくなかったのか。
「ここに迷い込んだ時は、正直助かったって思ったよ。ここに居れば怖い秋が来ないからね。でも君に借りた秋を眺めていたら……何だか秋も良いなって思えて来たんだ。夏にも満足出来たし、僕もここを出るよ」
私は何と言うべきか考えて「そっか」とだけ答えた。少年が自分で導き出した答えなら、それが正解なのだろう。
「手術が成功したら、モンブランを食べたいな」
「じゃあ、私がご馳走してあげるよ」
と、すっかり大団円の雰囲気を醸し出すが……そういえば、どうやってここを抜け出せばいいのだろう? 普通に出口から?
その時、私の背中に何か大きくて固いものがぶつかった。振り返るとそこには、鬼の形相の……鬼そのもの。元から気性が激しいのか、酒に酔っているのか、鬼は興奮した様子で「人間だ! 人間だ!」と叫んだ。私はぶつかった衝撃で自分のお面が落ちていることに気付く。
「逃げよう!」
少年が私の手を引いて走り出した。鬼は大きな体でドスドス地面を鳴らし、追いかけて来る。
少年は櫓の周りを囲む盆踊りの輪に向かって突進し、踊る人と人の隙間に潜り込んだ。鬼が私達を見失ってくれればいいが、そう上手くはいかない。どんどん近付いてくる足音から逃れるように、私達は櫓に登った。太鼓を叩くひょっとこは夢中な様子で、私達に気付いていない。
「まだ追いかけて来る! どうしよう!」
「――だ」
「え? なに? 聞こえない!」
ドンドンと太鼓の爆音が少年の声を掻き消す。ただでさえお面でくぐもっていて聞き取りにくいのだ。すると、少年は戦隊ヒーローの仮面を取り払った。現れたのは、色白な少年の素顔。輪郭は幼いが、涼しげなつり目が大人っぽい。少年はまっすぐ私を見て言った。
「もう逃げられない! こうなったら早く夏を終わらせるんだ!」
「夏を終わらせる? どうやって!?」
「分からないよ!」
なんだそれは!
私は焦燥感と苛々を押さえつけるように拳を握り締める。と、手の中に硬い何かがあった。それは先程戻って来たばかりの秋玉だ。
私は何故かそれが万能の魔法の玉のように思えて、縋る思いで願う。夏を終わらせて下さい、夏を終わらせて下さい……その時、忌々しい呪いの言葉が蘇った。
『絵日記のページが一枚足りないですよ』
赤い玉は、気付けば一枚の紙と鉛筆に変わっている。
そうか。私は八月十六日にやるべきことを残していたから、その日を終えられなかった。絵日記を書けなかったのだ。しかし今なら書ける。私は弾かれたように殴り書いた。
八月十六日、夏祭りで不思議な少年と出会い、私は――
“彼と夏を終える”
その文字を書き終えた瞬間、目の前が秋色に輝いた。
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