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「先生、これから授業参観の準備の追い込みしますか」
「そうですね」
ホームルームも終わり、わたしが職員室の自席に着くや否や、先輩が声をかけてきた。わたしは苦笑交じりに応じる。
「明日か……」
わたしのクラスの授業参観も、わたしの子供の授業参観も明日だ。見たいな、あの子の授業を受けている姿を。今回が恐らくラストチャンスだ。ここを逃せば、永遠にあの子の授業を受ける姿を見ることはできない。
……でも、無理だ。
明日の授業参観のための資料が、目の前に広がっている。わたしが明日の授業参観を放り出せば、困るのはクラスの子供たちだ。さすがにそんな無責任なことはできない。
そもそも、そんなことができているのなら、とっくにやっている。
わたしは気合を入れるために、あるいは自分の子供の授業参観への未練を断ち切るために、頬を思い切り叩いた。
「……びっくりしたぁ」
声のする方を見ると、三人の生徒がいた。わたしのクラスの子供たちだ。それも、あの窓ガラスを割る事件をつい最近起こした、やんちゃな三人組だ。本人たちには絶対に言わないが、職員室に来るときは怒られる時以外にない面々だ。それがなぜここに……。
嫌な予感がした。何かしたんだろうか。多分、何かした。そうでなければ、この子たちがここに来るはずがない。
偏見と言われるかもしれないが、これは経験則だ。今までの事実の積み重ねの結果だ。
事実、三人は沈痛の面持ちだった。
「先生、今から教室に来てくんない?」
わたしはめまいがした。明日の準備の追い込みがあるのに。これで夜遅くまでの残業確定したも同然だ。後でお母さんに連絡して、子供の面倒を見てもらうのを延長してもらわないと。
「……うん、行こうか」
わたしは重い腰を上げて、三人の後に続いて教室へと向かう。
「え、みんなどうしたの?」
教室に着くなり、驚くべき光景が広がっていた。クラスの子供たち全員が自席に座っていたのだ。わたしをつれてきた三人も、自席に戻った。
ホームルームが終わってから、それなりに時間は経過している。それなのに、全員いる。
「先生」
学級委員である二人が、わたしの前に来た。あの三つ編み眼鏡の子ともう一人の男子生徒だ。
「どうしたの?」
「先生って、子供いるんだよね?」
「うん、いるよ。小学六年生の子がね」
「先生は、その子の授業参観に一度も行ったことがないって本当?」
どうやら、あの時の会話を聞かれいていたらしい。
「……うん、行ったことない」
「それは、その子のことが嫌いだから?」
そんなわけないッ! と反射的に叫びそうになった。
だが、わたしも先生をそれなりにやっているから我慢できた。子供たちから、一般的には失礼と言われる言動でも無視できる。
「ううん、大好きだよ。だけど、行けないんだ。先生がお仕事の時に授業参観があるから」
「だったら、お仕事、休めばよくない?」
思わず苦笑する。言っていることは何も間違っていない。けれど、大人の世界はそう単純ではない。
「わたしが休むと、ここにいるみんなが困っちゃうでしょ」
それに保護者からのクレームも受けたくないし、という言葉はさすがに飲み込んだ。
「困っている人も大事だけど、自分の子供の方が大切じゃないの?」
心が抉られる。何も間違っていない。正論でしかない。だけど、大人の世界ではそれは通用しない。それを通すためには、強固な精神と、何かを捨てる覚悟が必要だ。わたしにはないものだ。
「たしかにそうだね。でも、行けないんだ。もしかしたら、そのせいでお仕事がなくなっちゃうかもしれない。お仕事がなくなっちゃったら、わたしの子にご飯を買ってあげられなくなっちゃうからね」
「そうかあ」
子供たちは一応、納得してくれたようだった。それにほっとする。だが、すぐに心は深くえぐられてしまう。
「でもさ、やっぱりその子は、先生に授業参観に来て欲しいって思ってると思うんだよね」
「まあ、それはそうかもしれないけど」
「だけど、先生は仕事だから行けない」
「そういうことだね」
「だったら、先生から仕事を無くしちゃえばいいんじゃない?」
……ん? なんだか、話の方向がおかしいような?
そもそも、放課後に全員が着席しているのもおかしい。今更ながら、大きな違和感に襲われる。なんだ、何が起きてる? 何が起きる?
「どういうこと?」
「先生は僕らを教えるのが仕事。だから、先生が休むと、僕らが困るから、授業参観に行けないって言ってたよね」
「そうだね」
「だったら、僕らが困らなければいいんだよね」
「……まあ、そうだけど」
次の瞬間だった。クラスの全員が、プリントを一斉に掲げた。学級委員の二人は、わたしにそれを見せる。
刹那、わたしは瞳が零れ落ちるんじゃないかっていうぐらい、目を見開いた。
そして、一条の涙を流した。
「先生を自分の子供の授業参観に参加させてあげたいので、先生がいなくてもわたしの子は大丈夫であることを証明します」
プリントにはそう書かれており、併せて自分たちの名前と保護者の名前、そして判が押してあった。
「これで、僕たちが困らないってこと、証明できるよ!」
「だから、先生、自分の子の授業参観に行ってあげて!」
そんな声が、子供たちから上がる。それを聞いて、涙が止まらなくなる。なんて優しい子供たちなんだろうか。
だけど、それだけで仕事を休めない。
わたしの代わりがいなければ、授業参観が成立しないからだ。まさか、この子たちだけ休みにするというわけにはいかない。
「あと、これも……」
そう学級委員の一人がわたしにプリントを差し出した瞬間、それは引き上げられた。
その先を見ると、思いがけない人物がいた。
「これはわたしが直々に渡すべきだろうな」
「……教頭先生」
まさかの教頭先生の襲来に、わたしを身を縮めた。こんな騒動を起こしたら、教頭の怒りがさく裂するかもしれないと思ったからだ。
だが、そうはならなかった。
「先生、これを」
学級委員から取り上げたプリントを、わたしに見せる。途端、わたしの涙の量は最高潮を迎えた。
そこには、教頭がわたしに代わり、授業参観を行う旨が記載されていた。
「先生、これはわたしが考えたものじゃない。この子たちが考え、わたしに相談……いや、交渉。これも違うな。脅迫。そうだな、脅迫をしてきた。もしも先生を授業参観に行かせないなら、授業参観をボイコットする、とね」
それは、まあ、脅迫だ。それもこちらが最も困る部類の立派な脅迫だ。
「さすがのわたしも困惑した。だが、この子たちの想いを聞いた」
教頭はクラスの子供たちに目を向けた。いつもと違う、優しさに満ちた眼差しだ。
「先生に自分の子供の授業参観に行かせてあげたいと。自分たちがその子と同じ立場だったら、悲しい気持ちになると。それに、そんな悲しい気持ちで授業参観が行われると、自分たちの心も悲しくなってしまうと。だから、先生のためにも、その子のためにも、自分たちのためにも、先生に授業参観に行かせたいと」
教頭はふっと息を吐いた。
「とはいえ、子供たちの想いだけで、授業参観に行かせるとわたしは決断できなかった。だから、思わず口にしてしまったんだよ。親御さんたちの協力も必要だな、とね。自分で発した言葉ながら、大人げないと思ったよ。悪い大人になったな、と自分に絶望した。だが、子供というものは本当に恐ろしい」
言って、教頭はわたしに、生徒が持つプリントを見るように指差した。
「翌日にはこのプリントを全員分提出してきたよ。これには驚いた。そして、子供の持つ強さに改めて感動した。一応、クラス全員の親御さんに電話をかけて確認も取ったから間違いない」
教頭は後頭部をかきながら、少しだけ微笑んだ。
「ここまでされて、先生を授業参観に行かせない、なんて言えるわけがなかった。この子たちの、この頑張りは報われるべきだ。いや、報われなければならない。わたしが授業をするぐらい、お安い御用だ」
わたしはもう誰の顔も見れなかった。それぐらい、涙が溢れかえっていた。
「だから、行ってきなさい。初めての授業参観にね」
「……はい」
わたしは返事を何とか絞り出せた。でも、もう何も言葉を発せなかった。心がいっぱいだったから。
「先生! いってらっしゃい!」
わたしはわたしのクラスの子供たちを見る。
多分、いや、絶対酷い笑顔だったと思う。号泣し、鼻水も飛び出したぐしゃぐしゃになった笑顔。それでも、わたしは人生で一番素敵な笑顔だと確信している。
「ありがとう。行って来ます!」
翌日、わたしは初めて、自分の子供の授業参観に参加した。
飛びきりのおしゃれをして。
「お母さん、気合入れすぎ」
そう言った我が子は、笑いながら泣いていた。
~fin~
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