前 ・ 思い、焦がれ

9/12
43人が本棚に入れています
本棚に追加
/16ページ
   ◇◇◇  秋の長雨が続いていた。  ぽとりぽとりと軒を濡らす雨音に耳をすませていると、トヨから呼ばれて桜城は久しぶりに母の部屋を訪れた。一つ屋根の下に暮らしているのに、トヨも桜城も家にいれば部屋に引きこもってばかりいるので、トヨの顔を見るのも久々であった。 「お前に見合いの話が来ている」  表情一つ変えずにトヨは告げた。突拍子もない話に桜城はうろたえ、閉口した。 「相手は鈴木屋のテルだ。婿が欲しいという話だから、お前がちょうどいい。むろん断る理由もないだろう。みなのためにも、そろそろ身を固めておくれ」  犬か人形でもくれてやるかのような、冷淡な口調だった。 「わたしは結婚など――まだ、とても考えられません…」  動揺する桜城の返事は、トヨの上を無為に通り過ぎる。眉一つ動かさずにトヨは続けた。 「ならばよく考えるいい機会だ。お前もそんな年ごろということだ。こんなにいい話はないから、断る理由はないよ」  断る理由はない。それがトヨの結論であった。  桜城が誰かを好きかもしれないなどと考えたこともないのだろう。 「言いあいはしたくない。私の顔に泥を塗るような真似はよしておくれ」  突っぱねるような言い方に臓腑が凍り付く。これまでも桜城に心があるなどとは考えたこともないような人だった。この人らしい仕打ちだと思いながら、桜城はぎこちなく腰を折った。 「分かりました。母上」  自分は結局、母から愛情らしい愛情を頂かずにこの家を出てゆく。天が定めた運命なのだろう。  何もかも足掻くより諦めたほうが楽なのかもしれないなどと、桜城は小さく吐息した。
/16ページ

最初のコメントを投稿しよう!