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雨天であったが、傘を差して桜城は五十嵐を待った。
五十嵐の帰りは遅かった。細い土手をこちらに歩いてくる五十嵐の被り傘が見えた頃は、あたりはすっかり暗く、桜城の着物の裾はびしょ濡れになっていた。
「待っていたのか」
五十嵐は目を見開いて声をあげた。
「これまで雨の日は、先に帰っていたではないか」
「ああ。でも年明けに祝言をあげることになったのでな。きみと一緒にこうして帰るのもあと少しだから、一日でも惜しいと思って」
ボツボツと雨が傘を打ちつける音に負けまいと、桜城は大きな声で答えた。祝言などあげたくないのになぜか嬉しそうに話してしまった自分に、道化を演じた後に似た苦い気分になる。
返答までに数秒かかったが、返されたのは明るい声だった。
「それはめでたい。確かに所帯を持ったら、俺と道草など食ってはおれんだろう。真面目なきみの相手となる果報者は、どんな女性だ」
屈託なく相好を崩す。そんなに喜ばないでくれと、自分から話し出したくせに桜城は内心で五十嵐を恨めしく思った。
「酒屋の娘だ。何度か会ったが、素直でかわいい子だ」
「羨ましい。先を越されたな。俺も親や上役からせっつかれているのだ、いい相手はいないのか、とな」
はは、と軽快に笑う。
桜城は微笑を返した。どうして嬉しくもないのに笑ってしまうのか、やはりよく分からなかった。
「婿を探していたようでな、向こうの家族はみなわたしを大事にしてくれる。実家よりも居心地がいいくらいだ」
「そうか。それはよかった。幸せを祈るぞ」
祝福の言葉を贈られて、桜城の胸はねじくりかえったように苦しくなる。分かりきっていたことだが、五十嵐はこんなふうに無邪気に祝福してくれるほど、自分に特別な感情など微塵も持っていないのだ。
「きみも早く身を固められるよう、祈る」
そう答えた桜城は、嘘に嘘を重ねて建前で塗り固めるような自分にほとほと嫌気がさした。
(わたしが欲しいのはあなただ。だからこんな結婚、したくない)
気分はどん底まで沈んで、今すぐ五十嵐の前から逃げ出したくなった。このまま五十嵐の前にいては何を口走るかしれない。
「なんだか気分がすぐれない。すまん、五十嵐。やっぱり今日は先に失礼する」
なんとかそれだけを告げて踵を返した桜城は、すぐに駆けだそうとした。その腕をとられ、怪訝そうに問われる。
「どうした、急に」
「具合が悪いのだ」
「ならば家まで送ろう」
「違う――――!」
言っていることが支離滅裂。だが払おうにも五十嵐の手の力は強くて、振り切って逃げ出すことができない。浮かびかけた涙さえ覗き込まれる破目になった。
「何を、泣いている?」
唖然とした口調で五十嵐が訊く。
桜城の泣き出したことへの動揺が揺れるまなざしから伝わってきた。もはや取り繕う言葉も桜城は出てきそうになかった。
「なんでもない…」
「なんでもないのに、泣くわけはなかろう。何か気に障るようなことを言ってしまったか」
心配する五十嵐の顔を見ていられずに桜城は俯いた。
「本当は、結婚などしたくないのだ、五十嵐」
こんな告白をされても迷惑だろう。嫌われるかもしれない。そんな不安さえ桜城の舌を止めることはできなかった。
「わたしが本当に欲しいのは、五十嵐。あなただから」
五十嵐の反応を見る勇気もなく、桜城は視線を落としながら告げた。
長い長い沈黙が続いた。
五十嵐を困惑させていることにじわりと後悔が胸に込み上げる。こんな告白、しなければよかったと悔やんだ。
曼殊沙華の群生が足元で雨に濡れている。白い曼殊沙華の花言葉を教えてもらった夜に戻りたいと思った。そうしたら、こんな告白をして五十嵐を困らせるような過ちは二度としないだろう。
桜城の腕をとっていた五十嵐の手に力が込められた。
引き寄せられて、桜城は呆気にとられて手にしていた傘をとり落した。そのまま五十嵐の腕に強く抱かれ、驚きのあまり瞠目する。
「俺もきみが欲しい」
信じられない気持ちでその言葉を聞いた。
「――わたしを欲しいと、今、そう言ってくれたのか」
信じられなくて桜城は問いただす。この雨音だ、聞き間違いだったら哀しすぎる。
「ああ。俺はきみが欲しい」
切羽詰まった声で五十嵐が続ける。
「でも園田のようにはなりたくなかった。邪な思いできみを翻弄して、傷つけたくなかったのだ」
五十嵐もまた自分を愛しく感じてくれてくれていた。しかもこんなに真摯な想いで――――それだけで桜城は天にも昇る気持ちになる。
「あの男とあなたとでは全然違う。こんなに幸せを感じるなんて生まれて初めてだ。奇跡のようだ、嬉しい…」
五十嵐の背中をしっかり抱いて桜城は訴えた。
「もし俺と出会わなかったら、きみは幸福な結婚をしただろう」
そんなことがあるはずないと分かっている桜城は、首を振って五十嵐を見あげる。五十嵐の被り傘と深い抱擁のおかげで、桜城の必死な顔が雨に濡れることはなかった。
「違う。わたしは結婚などしたくなかった。なのに、あなたが祝福などするから…」
「きみの結婚を祝福したのは、きみが幸せになってくれればそれでいいと思ったからだ。きみの幸せが俺の望みだから」
切実な真心を伝えられて、嗚咽が漏れそうになる。
「わたしは今くらい、自分を世界一の幸せ者だと思ったことはない。こうしてあなたと同じ気持ちでいられるのだ。わたしこそ果報者だ」
内気な自分とは思えないほど、積極的に気持ちを吐き出している。一生に一度の告白だろう。こうして五十嵐と気持ちを確かめあえたのだからつらい告白をした甲斐もあったと、桜城は胸の裡を震わせる。
五十嵐がはにかむような、苦しげな微笑を刷いた。
「男が女を欲するようにきみを欲してしまいそうなのだ。それが怖い。それで困るのはきみだから」
意味が分からずに桜城は瞬きする。それからゆっくりと首肯した。
「あなたがそうしたいのなら、してかまわない。わたしを女のように欲してくれていい。むしろ、わたしがそうして欲しいのだ」
五十嵐が頬を紅潮させる。
思い余ったようにお互いに強く抱きあった。雨だけが二人を包み、周りを流れる時間は止まったかのようにさえ感じる。
「口づけていいか…」
耳元に囁かれ、桜城は目を伏せて頷く。
口づけは最初、触れるようだった。啄み、やがて唇を深く咬ましあえば、その甘さに全身がとろりとたわむ。長身の五十嵐に覆われて眩暈に似た恍惚を覚えた桜城は、初めて感じる陶酔に襲われて五十嵐の胸にすがりついた。口づけは刻々と熱をあげた。
「でも、ここでは人が…」
つと不安に思った桜城が言うと、「そうだな…」と惜しむように五十嵐の唇が離れた。
握ったあった手も、二つの身体も離れた。
めったに人通りのない町はずれの道だ。特に雨の日はそうなのだが、かといって人の往来が全くないわけではない。逆に人通りが少ない危険な道として、五十嵐の同僚が巡回に来る可能性もあった。
五十嵐とすごせる部屋が欲しいと桜城は思った。
もっと長く、誰にはばかることもない、雨の日もゆっくりと五十嵐と過ごせる場所が…。
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