43人が本棚に入れています
本棚に追加
/16ページ
◇◇◇
その朝、暗いうちに五十嵐は起きた。
そっと頬に口づけを落とされたのに気付いて、桜城は「うん…」と小さく唸りながら目を開ける。
「早いな」
暁の微光もないような暗闇で、桜城はいまだ覚めやらぬ目を凝らそうとする。
「起こしてしまって、すまない」
五十嵐はすっかり出かける支度を終えていた。暗闇に馴れた視界に、制服に警帽をかぶっている五十嵐がほんのりと浮かぶ。警官服姿の五十嵐は元の精悍さが一層際立ち、立派な見栄えがする。そんな五十嵐を誇らしく思いながら桜城は眺めた。
ここのところの五十嵐は忙しかった。
ここは関東と関西を結ぶ街道の宿場町の一つで、しがない田舎町だが、最近になって表通りの端に遊女屋ができ、しのぎとするやくざが流入してきて騒ぎを起こしている。治安も悪化し、喧嘩も後を絶たず、逮捕者が日々出ている。そのために五十嵐も負傷することがあり、桜城は気が気ではない。
「今日も気を付けてくれ、士郎――――」
五十嵐の手をしたたかに握ると握り返され、それだけで互いへの愛しい気持ちを確かめあえる。桜城は身を丸めて五十嵐の手に口づけた。袖口から五十嵐の匂いが微かに香ってきて、大好きな匂いに桜城はうっとりと目を閉じた。
「可愛いな、同之慎」
片方の手で髪を撫でられ、胸がじんとする。幸せすぎて怖いとは、こういう状態をさすのだろう。
「また今夜、来る」
いつもの温和な約束を残して、五十嵐が離れる。
上がり框に腰を下ろした五十嵐が靴を履いた。立ちあがった気配と共に、桜城は急に慄然としたものを感じ、焦燥に駆られて起き上がった。なぜだか、このまま行かせてはならないような気がした。
このまま離れてはならない――――どうして、そんな気がしたのだろう。
勢いよく飛び起きると、桜城は慌ててつっかけを履いて五十嵐の背中へ抱きついた。
「同之慎?」
五十嵐が驚いた声をあげる。桜城はあたたかな体温のする背中に顔を埋めた。
「どうした」
前に回した手に手をかさねられる。
「寂しいのだ…」
こどもっぽい呟きに、フフッと笑われる。確かに、突如として襲われた不安はまるでおとなげなかったと自分でも感じる。桜城は取り繕う言葉も思い浮かばないまま、夜毎に思う本心を打ち明けた。
「今夜も抱いてくれるか、士郎…」
普段は慎ましい桜城の誘いに、五十嵐が体を震わせる。
「きみさえよければ、俺は毎晩だって抱くさ」
天にも上るような科白を貰って、桜城はようやく気持ちが和らぐ。体を離すと、振り返った五十嵐が抱擁をくれた。大事な物を守るような深い抱擁だった。
「きみも今日は仕事だろう。気を付けて」
「ああ」
五十嵐の首元に頬を埋め、甘美な幸せに浸りながら桜城は答えた。
最初のコメントを投稿しよう!