後 ・ きみを恋う

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後 ・ きみを恋う

「川沿いの道を通って帰りませんか、先生。近道ですよ」  太郎の健やかな声かけに、桜城は目じりを下げてほほえみ返した。 「そうなのか。わたしはあのあたりの道に詳しくないから、案内してくれる?」  太郎と喜次郎が意気込むように声を合わせる。 「もちろんです!」  二人ともまだ十ほどだが、老齢の桜城を気遣ってくれる優しい少年らであった。彼らの家は桜城の住処(すまい)と近いため、書道教室の後で彼らと桜城は一緒に帰っている。  もしかしたら親がそのように差し向けてくれているのかもしれないとも感じていた。いずれにせよ、こうして親しく交流してもらえるのは、今となっては友人のいない桜城の生きる慰めとなっている。蟄居に近い生活をしている桜城は、書道教室と風呂屋、商店以外に出かける機会がほとんどないのだ。  桜城の開いている書道教室は、これまで使っていた建物が古くなったために場所を変えた。役場からそうするように通達があったのだった。前の場所よりも家から遠くなってしまったことに、桜城は少なからず困惑していた。老境に入ってから足の運びが悪く、心臓の発作も二度起こしている。次は助かる保証がないから気を付けるようにと、医師からはきつく言い含められていた。  少年たちは川縁の道を案内してくれた。  この町に転居してから十年近くが経ち、書道を教え始めて八年目だが、この道を通るのは初めてだ。いかに自分がこの町をよく知らずに暮らしているかが分かろうものだった。 「先生。あそこの彼岸花、きれいですね」  喜次郎が目を輝かせて指した先には、川を隔てた向こう岸の土手に、赤い絨毯を敷き詰めたような曼殊沙華が花を付けていた。  このところめっきり秋らしくなって、道端に見ることも多くなった。  もうそんな季節か…と、茜色の夕景の中で炎のように命を燃やしている曼殊沙華を、桜城は目に映した。  太郎と喜次郎が小学校のことを話し始めたので、桜城はひとり、大事な物をしまってある心の箱から愛する男の面影をそっと取り出してみる。あれからいったい、何年が経ったのか――――。  咲き乱れる曼殊沙華の中で、五十嵐と愛の告白をしあった夜は。  今となっては甘美な夢のようだ。あの夜も、赤い曼殊沙華は猛火のような花を付けて風にそよいでいた。まるで血だまりが漣をたてているようだった。 (ああ)  心の底で、桜城は深いため息をつく。思いがけなく、あの町の川縁に似た光景を見ているからか。  まさかこんなにも長い年月を、あの男無しで生きようとは。そんなことができようとは思いもよらなかったと、桜城は胸を詰まらせる。  あの朝。  桜城が五十嵐に思う存分に抱かれて眠った後の、五十嵐との最後の朝。  桜城に「今夜また来る」と告げた五十嵐は、それから半時間と経たないうちに死んだ。  あの頃、あの町はやくざ者が増えて治安が悪くなる一方だった。逮捕者も多く、そんな警察への恨みに駆られた男が、たまたますれ違った五十嵐を背後から襲ったのだ。男は酔っぱらっていて、勢いに任せて五十嵐の背中をめった刺しにした。警察は五十嵐につけられた刺し傷を数えるのを途中でやめたという。  五十嵐が死んでからも、なんとかあの町で教師を続けていた。  しかし半身を失った状態で、半身が生きていたころと同じ景色を見続けるのは苦痛以外の何物でもなかった。視界の一つ一つに生きていたころの五十嵐が重なり、その途方もない喪失感に眩暈さえ興して、しゃがみこんでしまうこともよくあった。苦しくて心臓がつぶれてしまうかと思った。  壊れたのは心だった。確かにあの時、自分の心は半分以上、壊れたに違いない。  以降、独身を貫く桜城に奇異の目を向けたり、あからさまな揶揄を投げかけてくる者も少なくなかった。家族とも、疎遠どころか絶縁状態だった。それでもあの町を離れる決心がつかなかったのは、他でもない、五十嵐との思い出が詰まった場所だったからだ。  教員を退職して、ようやく吹っ切るものがあり、徒歩(かち)旅でふらりと立ち寄ったこの町に腰を落ち着けてしまった。国語教員の頃に何度か賞をとったから、この町で書道教室の講師になるのはさほど難しくなかった。  五十嵐の死に慣れるまで数十年を要した。  五十嵐を見ることも触れることもできない哀しさから、時に魂の抜け殻のようになって、後を追ってしまいたいと考えたことも一度や二度ではない。  それでもこうして自分をこの年齢まで生かし続けたものはやはり、それもまたあの男からの、そしてあの男への、愛情だったのだろう。  彼が愛してくれた自分という命。小さくありながらもその存在を粗末にするのは、大事に扱ってくれた五十嵐に対して申し訳ない――――知らず知らず、そんなふうに考えたからなのだろう。  燃えるような恋をした。  奇跡のような恋だった。  いくら抱きあっても抱き足りなかった。いくら受け入れようとも厭き足りず、もっともっと欲しくなってたまらなかった。  体温さえ交換しあうような抱擁で、このうえない幸福が得られた。  口づけも、舌の交わりも。これでもかと密着させた素肌の重なりも。  離れがたく、ずっとこのままいたいと願った。  そんな恋は、五十嵐としかしていない。
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