後 ・ きみを恋う

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「先生、さようならぁ」 「さようなら、気をつけて帰るのだよ」  坂の下で、元気に腕を振る二人と別れた。二人は右手の道へ去ってゆき、桜城は山中の坂を少し登る。坂はさほどの勾配ではないがそろそろきつくなってきたと、寄る年波を感じながら桜城はゆっくりと歩みをとる。  夏から秋へと変わる季節、日の沈んだ後は風も冷たくなる。この風は心臓に悪かろうと、桜城は着物の襟を首の前で引き寄せて掌で押さえた。  夜、布団にもぐってもなかなか寝付けなかった。思いがけなく曼殊沙華の燃えるような群生を見て、五十嵐を強く思い出したからだろうか。  目を開いて煙のような天井の模様を眺めているうちに、ふと、夕刻見た曼殊沙華に名を呼ばれているような気がして、桜城は起き上がった。  こんな感覚は初めてだった。  思い過ごしだ、眠ってしまえ。夜更かしも体に良くない、そう自分に言いかけながらも、桜城はどうしてもその声が気になって框を下りる。着替えもせず薄い綿半纏のままで、裸足に草履だけをつっかけて外へ出ていた。 (大丈夫だ。少し花を見に行くだけだから)  あの川縁まで距離はさほどでもなかった。  ただ夜風は身体によくないから、夜の外出は極力控えている。その点は気になったが、すぐに戻ってくるのだからと自分に言い聞かせて、桜城は坂を下りた。  真夜中に近い時刻の空気は冷えびえとしていた。晴れた夜空には、低い位置に上弦の月が行き場を失った舟のような態で浮かんでいる。  びゅっと風が吹いて桜城の白髪を揺らす。運悪く乾燥した空気を思いきり吸いこんでしまった桜城は、こほこほと咳こんだ。  川に着くと、目的の曼殊沙華の群生は黒々とした闇の中に妖艶な重厚さと淑やかさをもって、血だまりを作っていた。その向こうには白い曼殊沙華も密集している。  桜城は、その赤と白の境目に一人の男がこちらに背を向けてしゃがんでいるのに気付いた。背中をかがめて一心に白花を観察している。  こんな夜更けに――――と、桜城は微かに眉間を狭めた。  その人物がこちらを振り向く。  月光に照らし出されたその顔が視界に入った途端、桜城は呼吸を忘れた。鼓動が暴れるように拍動を刻み始める。  それはあまりに懐かしい、実のところはもう細部まであまりよく覚えていなかった、桜城がこの世で唯一愛した者の顔だった。 (…士郎――――!)  自分は幻影を見ているのだろうか。  それにしてはあまりに生々しすぎて、他人の空似かとも考えたが、現実が日常から乖離を起こして空間が歪んでいると考えた方がたやすかった。  目の前の男は当時生きていた五十嵐の風貌のまま、巡査の服装を着込んで警帽も被っている。こんな偶然、あるわけがない。他人の空似のほうが嘘っぽくて、死んだ五十嵐その人である方がよっぽど現実らしい。夢のようなそんな感覚にとらわれる。 「士郎…!」  掠れた声で呼びかければ、相手は川を隔てた向こう岸で口角をあげて笑う。桜城は目を瞠った。本当に、あれは五十嵐なのか。  五十嵐は桜城に背を向けて、鬱蒼とした森の中へ歩き出す。その後姿は、見る間に夜の暗闇に溶けてゆき、桜城は見失ってしまうのではないかと不安になった。 「ま、待て――――!」  つっかけの桜城はよろめきかけたが、なんとか体を保たせて左右を見渡した。右手の小さな橋を見つけて駆け出した。  走ってはならない。心臓も丈夫ではないのだ。また例の発作が起これば、それは命取りとなろう。  そうと分かりつつも、桜城は駆けださずにはいられなかった。そうしなければ、五十嵐の姿は森に隠れて見えなくなってしまう。もう二度と目にすることは叶わないだろう。  そんな焦りに襲われて桜城は懸命に走った。縺れかける足は今にもつまずきそうだったが、なんとか保ちこたえて前へと繰り出し、橋を渡り、土手を伝った。それから五十嵐が入って行った森の中へ一目散に踏み込んだ。  木々の間に拓かれた道があった。異様なほどまっすぐに伸びている小路を歩いてゆく五十嵐の背中が見える。  いったいどこへ向かっているのか。どこへわたしを導こうとするのか。  五十嵐は追いかけてくる桜城に気づいているのかいないのか、やがて走り始める。桜城はいっそう強まった焦燥に駆られながら走った。  走っているうちに、自分の体が軽くなっていることに気付いた。見ると、これまでのような皺枯(しわが)れた手ではなく、若い頃のように健康的な、張りのある肌になっている。  袖繰りから見える腕も、着物の裾から見える脚も、まるで若い頃のような筋肉がついてつややかな皮膚になっている。桜城は五十嵐を追いかけるうちに、五十嵐と共に生きていたころのような若い肉体になっていた。  不思議と驚かなかった。逆に、五十嵐と会うならきっとこの姿になるだろうと知っていた気がした。  颯爽と走る五十嵐の背中を追いかけるうちに、道の両脇はどんどん鬱蒼としてくる。森の奥深くまで入り込んでいるのだろうか。帰り道が分からなくなければいいがと、桜城は不安になる。いや、それでもいいのだ。このまま帰れなくてもいい、五十嵐ともう一度、話ができるなら。  古い寺院の大きな堂が突如として目の前に出現した。  五十嵐が正面の観音扉を開けて桜城の視界から姿を消す。桜城は五十嵐を見失った焦りに心を乱され、同じように扉を開けると中へ踏み込んだ。  扉が勝手に締まる。これも、桜城はそうなることを前々から知っていた気がする。  堂の中は真っ暗だ。深い闇に目が眩み、やみくもに手を伸ばして宙を弄ったが、何がどこにあるのかさっぱりわからない。五十嵐が本当にここに入ったのかも怪しくなってきた。  まもなく背後からきつく抱かれた。そのまま深い抱擁を受ける。 「同之慎」  耳元でしっとりと囁かれた低音に全身がわなないた。深い喜びに気を失ってしまいそうだった。間違いなく、懐かしい五十嵐の声だ。男の顔は桜城の黒髪にうずもれていた。
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