前 ・ 思い、焦がれ

2/12
43人が本棚に入れています
本棚に追加
/16ページ
   ◇◇◇  初夏の明け方に長者町で(おこ)った火の手は家三軒を焼き、火の手はさらに周囲の建物を吞もうとしていた。町に警鐘が轟き、自室の布団で眠っていた桜城はそれに気づいて飛び起きた。  動きやすい服装に着替え、若衆班の法被(はっぴ)に腕を通すと急いで通りへ飛び出した。右手に、日の出間近の空を塗り替えるようなもうもうとした煙が立ちのぼっている。材木の燃える匂いと大気に舞う火の子を払いながら、道を塞ぐ野次馬の人だかりを分けるようにして桜城は現場へ急いだ。  途中で会った若衆班の仲間と一緒に着くと、班長をはじめとした手練れ数人が火災の起きている商家の前で何やら話し込んでいる。事情を尋ねると、中に寝たきりの老人が残っているという。家人や下男たちは逃れ出てきたのだが、老人は誰かが助けるだろうと思って、結局、誰も助け出せていなかったのだ。  火の手は強く、このままでは隣家へすぐに燃え移ってしまうだろう。早く倒壊する必要があるが、中に人がいると分かりつつ、行うのは忍びない。かといって、助けに入るには老人のいる部屋は奥まっていて、どうしたものか悩ましい。下手をすれば助け出す消防組に被害者が出てしまう可能性もあり、班長は思案を巡らせていた。すると群衆から怒声があがった。 「早く家を壊せ! どうせ中にいるのは脚の悪い寝たきりのジジイだ! 火の勢いを止めるほうが先だろう! それにこんな煙だ! ジジイは死んでる!」  その怒声は不快な金属音のように桜城の耳を(つんざ)いた。  非情な言葉ではあったが、多少なりとも真実を突いている。  自分でも思いがけなく激高した桜城は、咄嗟に玄関に向かった。そのまま家屋に踏み入った。 「あっ、何をする、桜城!」 「バカ、入るなっ」 「水も浴びずに、あの野郎――――」  仲間の声が背中へとふりかかったが、逆上した桜城の心には届かなかった。  老人を救い出したい。  あんな非情な言葉を発した無神経な男に、まだ老人は生きている、お前は一人の人間を見殺しにしようとした悪人だと思い知らせるために。その一心で桜城は燃えている家の中に前後見境なく入ったのだった。  だが状況は思っていたよりも厳しいものだった。視界のすべてが灰色。煙の渦だった。すぐに目が沁み、涙が浮かんで、視界がままならなくなった。  炎は見えないが、匂いからして近くまで来ている。それにこの煙。この煙のせいで意識を失い、焼け死んでしまう恐れがあった。  勢いよく流れる煙が刻々と黒に変色してゆく。襖の奥から、ごうごうと唸る火の手が見えた。炎はすぐそこに迫っていた。  桜城はぞくっとした。壊さなくともすぐにこの建物は崩れるだろう。そう感じた。  その時、左手から何かくぐもった音がした。火災独特の恐ろしい燃焼音の中から、聞き分けられる程度の人の声だった。その音源を捉えようとして、桜城は必死に耳をすませた。 「誰、か――――…」 「おじいさんですかッ?」 「たす、け――――」  足元からの声に耳をそばだてた。煙の中で目を凝らした視界の先に、何かを捉えた。  桜城は姿勢を低くしてそれを掴んだ。腕だ。引き寄せると年配の男だった。ここは廊下の途中だから、寝たきりといわれた老人は布団から這って部屋を出て、なんとかここまで来たのだった。  その努力を無にしてはならない。けして、この人を死なせてはならない。そう決心して桜城は老人を背負った。 「必ず助けますッ」  だが、老人でも脱力した人間はどっしりと重い。姿勢を低くしたまま進むが、早くは動けなかった。玄関がどの方向なのかも桜城はあやしくなっていた。火の手は確実に近づいており、火の粉が細かい花火のように散って目を焼いた。 「桜城!」  刹那、前方から知った声が聞こえた。 「桜城!」  若衆班の一人、五十嵐(いがらし)の声だった。 「ここだ!」  そう叫んだ途端、煙りにむせた。木炭が胸に詰まったような強度な息苦しさに、ゴホゴホと咳が出て止まらなくなる。肺が黒々とした澱で満たされたみたいだった。 「ここ、だ…!」  力を振り絞って桜城は叫んだ。一気に視界が暗くなる。煙が黒くなった――――と、感じたのも束の間。視界が本当の暗闇となり、桜城は意識を失った。
/16ページ

最初のコメントを投稿しよう!