前 ・ 思い、焦がれ

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   ◇◇◇  蝉時雨がかしましい夏の夕方、清代(きよ)と共に交番に赴くと五十嵐の顔があった。先輩と思しき年上の警察官と一緒に何やら書類に目を落としていた。 「桜城ではないか」  驚いたような五十嵐の声に、桜城はぺこりとお辞儀を返した。  清代が桜城の手をとる。滅多に来ない場所に緊張しているのだと察した桜城は、安心して大丈夫だという気持ちでしっかりと小さな手を握り返した。 「この子のとこでお願いがあって参りました」  意を決して桜城は口を開いた。二人の警官は作業の手を止めて、話を聞くと返事する。  清代は尋常小学校の二年生で、桜城が受け持っている生徒である。桜城は校長から、清代の父親は飲んだくれで暴力をふるうため、一年前から母親と共にこの町の祖父母の家に(のが)れ住んでいると聞いていた。  ところが最近になって、父親が毎日のように祖父母宅を訪れ、寂しいから清代をよこせと言ってくるようになった。決まって、清代が学校から帰る日暮れ時に顔を見せる。その時に暴力をふるうので、怖くて家に帰りたくないのだと、桜城は清代から二日前にこの事実を聞いた。  そのため昨日、一昨日と、桜城は父親と話をしようと、清代を家に送り届けた。  やってきた父親に、学校でも清代は見るからに元気がなく、あなたが来るから家に帰るのが苦痛なのだと説明し、本人が嫌がっているのだからこのような訪問はしないでくれと父親に頼んだ。  全身から酒の匂いを漂わせた男は激高して、妻や清代にだけではなく桜城にまで暴力をふるってきた。だから桜城の顔と体には、この二日間で男の蹴りを食らったがためのあざが複数個所できていた。 「今日も、今からこの子をお宅に送ります。しかし父親は暴力をふるいますので、お力添えいただけないでしょうか」  桜城の説明を、二人の警官は只事でない様子で聞いていた。 「もちろんです」  年配の警官が答える。ただし、警官が目の前で付き添っては男は本性を現さないだろうから、我々は隠れて見ている。だから安心するようにと、年配の警官が続けた。 「ありがとうございます。お願いいたします」  桜城は清代と手を繋いだまま交番を出た。 「警察が味方になってくれるんだね」 少し元気づいた様子の清代がそう言って笑顔を見せる。久々に見る教え子の笑顔に桜城も心なしか気持ちが軽くなった。 清代は道すがら祖父母の話を聞かせてくれた。家の近くに広い畑を持ち、季節の野菜を育てて生計をたてている様子が窺えた。  清代の住まいは町はずれの森の手前にある、慎ましやかな平屋である。桜城の顔を見ると、出てきた母親が何度も頭をさげた。 「すんません、先生。こんな身内の面倒に巻き込んじまいまして…」  そんな母親に、昨日相談したようにあらかじめ警察に話を通してきたことを、桜城はこっそりと告げた。  隣り町に住んでいるという父親は今日も日暮れ時にやってきた。清代は桜城の腕にしがみついて、父親の家には行きたくないと泣きだす。 「父ちゃんのところに来たら、うまいもんもたらふく食えるし、いい着物だってたくさんこさえてやれるぞ?」  清代の父親は裕福な商家の跡取り息子であるらしい。これまでの二日間で桜城の知りえたところでは、男は始めこそ優しげな猫なで声で説得を試みるものの、思うようにいかないと怒り始めて暴力に走るのだった。 「それでも、清代さんはあなたと一緒に暮らしたくないと言っているのです。あなたは酒に溺れすぎでしょう。ましてや、自分よりか弱い者に暴力を振るうなど、人として言語道断ではありませんか」  男の前に鎮座した桜城は、どこから五十嵐たちが見守ってくれているのかは分からないものの、昨日や一昨日に比べれば数段に心強いと感じながら男に言い放った。  男は案の定、桜城の台詞に逆上した。「舐めやがって」「このクソガキが」などと悪態をつきながら桜城の腕や足に蹴りを入れ、着物の襟をつかんでひねりあげる。その時、縁側から五十嵐たちが部屋に駆け込んできた。 「暴力行為で逮捕だ!」  五十嵐が男を腕ごと背後から抱え込み、年配の警官が叫んだ。男は驚いた様子で顔を蒼くする。桜城はその光景を目にしてほっと胸をなでおろした。
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