前 ・ 思い、焦がれ

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 週末の午後、桜城は菓子を持って五十嵐の自宅を訪れた。  町の菩提寺の次男坊が警官になったということで、五十嵐はこの町でちょっとした有名人だった。広い墓地を代々治める、地域に根差した寺で、本堂もかなり年季のいった建物だ。その手前を通りすぎて桜城は奥にある住宅の引き戸を叩いた。 「ごめんください」  大きく声をあげて幾度か呼んだ。  やがてカラカラと引き戸が開き、五十嵐本人が顔を見せた。五十嵐は桜城の突然の(おとな)いに驚いたのか、目を見開いた。 「桜城か、どうした」  休日でくつろいでいたのか、こざっぱりした紺色の着物姿だった。姿勢が良くていかにも警察官らしい。威厳すら感じさせる五十嵐のそんな風格は思いがけなく眩しく見えて、桜城は目を細めた。 「この節は助けてくれてありがとう。警察が知り合いなのかと怖気づいたらしく、清代の父親は諦めたらしい。あれ以降来なくなったと、清代から聞いている。些細なものだが、これは礼の気持ちだ」  桜城が差し出した袋に、五十嵐は困惑を見せた。 「いらん。仕事だから当然のことをしたまでだ」 「そう言うな。わたしが礼をしたいのだ。どうってことはない、ただの煎餅だから受け取ってほしい」  さらに前へと差し出したそれを五十嵐がぎこちなく受け取る。それで気の済んだ桜城は、腰を折って退去を告げることにした。 「受け取ってくれて、ありがとう」  頭をさげて踵を返そうとした瞬間に声をかけられた。 「あがって茶でも飲んでいかないか」  社交辞令かとも思ったが、五十嵐は真顔だ。さして深い仲ではないが、この男がその気もないのに愛想を口にするとも思えない。無理に礼を受け取ってもらったのにこちらが茶の誘いを断るのも悪い気がして、桜城はかすかな逡巡を覚えながらも「それでは」と頷いた。  客用と思しき畳間に通されて、桜城は勧められた座布団に腰を下ろした。やがて茶を卓の上に二つ置いた五十嵐が、桜城の前に胡坐する。 「誘ったのに茶請けが無かった。すまん。もらった煎餅を出そうか」 「いや、いい。茶で充分だ。わたしこそ休みの日に押しかけてすまない」  そもそも桜城が休日だからといって、五十嵐に会えるとは限らなかった。高等小学校を卒業して以来、警察官の道を歩む五十嵐の休日は読みにくい。今日も本人が不在ならば、家族に菓子を渡して帰ろうと桜城は考えていた。 「ちょうど暇を持て余していたところだ」  屈託なくそう言われて気持ちが軽くなった。 「清代はきみが担任している子なのか」 「ああ、二年だ」 「二年か。みなかわいいさかりだろう。いや、俺は直に接していないから、こんな暢気なことが言えるのかな」 「いや、かわいいよ。実際にな」  五十嵐のほほえましい謙遜に桜城は相好を崩す。  五十嵐の自宅にあがってこんなふうに長閑に話していることが、なんだか不思議に感じられた。長年の知り合いではあるが、消防組の若衆班でも挨拶程度にしか言葉を交わしたことのない相手だ。  それでも五十嵐は、桜城にとってなんとなく気になる相手だった。同じ場所にいると自然と視線が導かれ、いつかゆっくりと話してみたいと思わせる人物はいるものだ。桜城にとって五十嵐は尋常小学校からそんな存在だった。  ただ、あまりの性格の違いに気後れがして、自分から話しかけようとは思わなかった。桜城の性格は内向的で一人でいることが多かったが、五十嵐は友人たちとつるんでいることが多かった。桜城は子供の頃から絵や書が好きだったが、五十嵐は泳ぎや剣道に夢中だと噂に聞いていた。 「きみは教員に向いている」 「そうか? どうしてそう思う?」  よく知らない自分のどこを見たらそう感じるのか、知りたくなって訊ねた。 「上品で、人あたりがいい」  真顔のまま五十嵐が言う。顔の赤らむような科白に桜城はどぎまぎした。 「そして、暴力をふるう男に一人で対峙する正義感もある」  さすがに揶揄されているのかと感じ、桜城の口から苦笑が漏れた。 「それって褒められているのだろうか。それとも、相変わらずの無鉄砲だとからかわれている?」  消防班で失敗した経緯もあり、桜城は自嘲しながら訊ねた。五十嵐は思いがけなく優しく笑い、小さく首を振る。 「感心しているのだ。おとなしく見えるきみがあれほど感情的な人だとは思っていなかったから、感動した。確かに、火災の建物に一人で飛びこんだのは無鉄砲だったかもしれないが。それでもたとえ教え子のためとはいえ、ああまでする教師は尊敬に値する」  手離しに褒められていることを知って、桜城は反応を失う。 「あの時の凛としたきみは、綺麗だった」  そう畳みかけられた時には、これまで感じたことがないほど頬が熱くなった。
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