前 ・ 思い、焦がれ

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   ◇◇◇  雨の降っていない帰り道、桜城は途中にある川原の土手に座って暗くなるまで本を読む。家に居にくいために始めたこの日課は、今となってはできないと落ち着かなくなる習慣になっている。  大気を刺す強い風が通り過ぎて、桜城の髪を揺らす。桜城は襟巻を口許まで引き寄せて暖をとった。真冬でも褞袍(どてら)を着込み、襟巻をしていれば凍えることはない。むしろ、きょうだいの中で自分だけ厚い上衣を用意してもらえなかった子供時代のほうが、今よりよほど寒かった。  桜城の家はけして貧しい家柄ではない。むしろ元武家として由緒ある家系の、村一番の裕福といってよかった。それでも桜城は人並みな綿半纏一つ買ってもらえなかった。兄達が服を大事にしなかったので、おさがりすらまともなものがなかった。  母が自分を疎ましがっていたことは、名前の由来を聞くまでもなくずっと感じていたことだ。それでも諦めきれずに母となんとか和解しようと、できれば愛してもらいたいと願い、努力を惜しまなかった桜城は、頼まれごとといわれれば誰よりも多く引き受けたし、折に触れた母への贈り物も欠かさなかった。  その全ては空回りに終わった。  その全てを与えてなお桜城は母から一度もほほえみかけられなかったし、桜城への毒を含んだまなざしや声掛けが和らぐこともなかった。  きょうだいたちは母と桜城とのそんな関係に見て見ぬふりし、父親は知らん顔だった。大人になった今でも家に居にくい理由は母親との冷えた関係が大きいが、無関心な家族からの疎外感もあるだろうと桜城は思う。  もしかしたら自分が気付かないだけで、自分には周囲を不快にさせる何かがあるのだろうか。だからこそ、あんなふうに家族から嫌われるのか。そう考えると今、教員としてそこそこ居心地よく勤めさせてもらっているのはけして当たり前のことではなく、ありがたいと思う。学生時代も少数ながら気の合う友達はいたし、学校は嫌いではなかった。家にいるよりもよほど安心できたし、居心地もよかった。  視線を近くの叢へ流した桜城はふうっと吐息を漏らした。  教員を目指し始めたあたりから、母との良好な関係は諦めたし、家族の冷淡さにも慣れている。桜城は家にいてもほとんどを自室で過ごしていて、自宅で食事をとることもめっきり減った。なのに暇さえあれば未練がましく、どうしたら家族に溶け込めるのだろうなどと考えてしまう自分の甘さが情けなくなる。  目の前に横たわる小川からの清らかなせせらぎに耳を傾けた。  夕日の残照を反射させる水面をぼんやりと眺めてみれば、背後から声がかかった。振り返ってみると、警官姿の五十嵐だった。「奇遇だな」と笑顔を見せながら桜城の隣りに腰をおろす。 「勤務中か。五十嵐」  勤務中だと思ったのは、五十嵐が警察官の恰好だったからだ。 「いや。仕事帰りだ」  慣れた様子で警帽をとり、手櫛で髪を寛がせる。  撫でつけられていた髪に動きが生まれ、元々精悍で男前な五十嵐の男ぶりをいっそうあげる。そんな五十嵐に見惚れている自分に気付いた桜城は、慌てて視線を逸らした。 「あなたとここで会うのは、初めてだな」 「今日から分署勤務になったのでな。そのせいかもしらん」  なるほど、五十嵐の帰り道が変わったというわけだった。 「きみはよくここにいるのか」 「うん。こうして本を読むのが好きでな。日課みたいなものだ」 「ほう。良い趣味をしている」  五十嵐はおおらかに褒めあげる。なんだか会うたびにこの男から褒められるようでこそばゆくなった。 「だがもうやめようと思っていたところだ。暗くなってきたからな、手元が見えにくい」 「そうか。帰るなら途中まで一緒に」 「うん」  二人で立ちあがり、土手をのぼった。  帰途では小学校の思い出に花が咲いた。 「ずっと話しかけたかったのだが、桜城には声が掛けにくかったな」  そんなことを五十嵐が打ち明けるので桜城は驚いた。 「どうして」  内向的な自分が五十嵐に声をかけられなかったのは仕方がなかったして、見るからに社交的な五十嵐が声をかけにくかったとは、どういうことか。それほど自分は気難しそうに見えたのだろうかと、衝撃を受けた。  五十嵐が首を傾げて考え込む。 「どうしてかな。物静かで真面目な感じに、触れがたいものがあった」  良いのかのか、悪いのか、判断に悩む答えだった。  駆け足の速い五十嵐が羨ましかった、と桜城が告げれば、字が上手くて計算の速い桜城を凄いと感じていた、と五十嵐が応じる。たわいないからこそあたたかくて、懐かしい話だった。 「あなたこそ、剣道もすばらしかったし、文武両道を極めていたじゃないか」  おだてでもなんでもなく、五十嵐は勉学もよくできたのだ。 「きみは試験で常に一番。ずっと俺の憧れだった」  憧れなどと言われて赤面する。 「わたしはそこまでできた人間ではない」  そうだ、むしろ…と、ここで桜城は知らず自虐的な思考に囚われた。 「この世にいてもいなくても、同じ人間だから」 「――どういう意味だ?」  五十嵐が怪訝そうに訊ねる。  目の前の相手が警察官だということを忘れていた自分に、桜城は苦笑した。思わず口を滑らせた自分を愚かしく思う。 「なんでもない。今のは忘れてくれ」  自分を苛み続ける忘れられない言葉だ。あんなことを訊ねなければよかった。自分の名前の由来など。母の本当の気持ちなど…。  五十嵐はまだ腑に落ちない顔をしている。別れ道になり、「ではまた」と別れを告げた桜城に五十嵐が続けた。 「さっきのきみが何を考えていたのか、俺には想像もつかんが、いてもいなくても同じ人間などこの世には一人もおらん。きみが消防組で人を助けていたとき、相手がどんな人間か確かめてから判断することなどなかっただろう。それと同じだ」  その言葉は少なからず桜城の胸を打った。一種の感動だった。  また会って話したいと願った。  川原の土手でああして座って待っていれば、こうして五十嵐と帰れるのだろうか。  そう考えている自分が意外だった。そうまでして積極的に他人とかかわりを持とうとするなど、普段の桜城にはない発想だったのである。
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