前 ・ 思い、焦がれ

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 実際、会える日もあれば会えない日もあった。  決まった時刻に業務が終わる自分と違い、五十嵐の帰り時間はまちまちだった。 そうと知りつつ、悪天候でもない限り、暗くなって本が読めなくなるまで桜城は五十嵐を待った。  幼馴染みといえるほど親しくはないが、尋常小学校と高等小学校の同級生として、五十嵐の姿を桜城はしばしば目で追っていた気がする。桜城にとって五十嵐はずっと、何かしら意識してしまう存在だった。  五十嵐は社交辞令で自分に憧れていたなどと言ってくれたが、自分こそそうだった。視線を惹かれる。心惹かれる。そんな相手だった。  五十嵐のことを考えると切ない気持ちになるのはどうしてだろう。  端然とした姿を思い出すたび、また会いたい、できればもっとゆっくり話したい、そんな切望が胸にこみあがってくる。 「待たせてすまない、桜城」  会える日には五十嵐はそう声をかけてくれる。  もしかしたら声をかけないで桜城の背後を通り過ぎる日もあるのかもしれないが、それでもよかった。その日の五十嵐の気分次第で声をかけてくれればいい。 「園田を憶えているか」  この日、桜城はこの話をしようと決めていた。もし五十嵐と話せるなら、あの時の感謝の気持ちを伝えたいと考えていた。  五十嵐が咄嗟に息を飲んだので、憶えているのだ、と桜城は思った。  桜城はわざと園田に「先生」を付けずに呼び捨てにした。事実、あの男は「先生」と呼ばれるにふさわしくなかった。  園田は一年間だけ、尋常小学校で桜城と五十嵐の担任だった男だ。年齢は確かではないが、おそらく三十代半ばほどだったろう。  桜城はその年、園芸係として校舎の裏にある花の世話をしていた。おもに放課後、花壇と畑に行って世話をするのである。  最高学年だったので世話をする時間は他学年より遅く、校舎裏の花壇や畑にはいつもひとけがなかった。  園田はよくそこに現れた。最初、真剣に係の仕事をしている自分をねぎらうために顔を見せに来るのだろうと桜城は思っていた。桜城はけして目立つ生徒ではなかったが、学科の出来が良く、真面目で静かな生徒だったために、教師たちから可愛がられていたのだ。 「ご苦労さん、桜城」  ぽんと園田に肩を触れられても、教師としての労りだと思っていた。  最初は肩を叩かれただけだった。それが、肩を抱かれるようになった。やがて親し気に尻を叩かれるようになった。それが、尻を撫でられるようになった。  園田はだんだんと大胆になり、ふざけるように笑いながら「ここは元気か?」などと言って桜城の着物に手を入れて、褌の端から桜城の性器を(まさぐ)るようになった。  最初、本当に何をされているのかわからなかった。そんな桜城も、さすがに気持ちが悪くて、「先生…」などと手で手を払おうとしたが、園田はやめてくれなかった。  桜城は子供ながらに恥ずかしくて涙が滲んだが、担任の行動を拒絶するのはなんだか失礼な気がして、強く出られなかった。己の性器が少しずつ「反応」してゆくのにも耐えられなかった。  園田の卑怯なところは、桜城の口を封じることを忘れなかったことである。 桜城を背後から抱え込んで、着物の合わせから手を忍ばせながら、園田は紅潮する桜城の耳元に囁きかけた。 「こんな姿をご家族が知ったらどう思うだろう。お母さんなど、きみをいやらしいこどもだと思うだろうなあ。どこかへきみをくれてしまうかもしれない。だからこのことは、誰にも言ってはいけないよ」  母にいやらしいこどもだと思われたくない。どこかへくれて欲しくない。だから、生ぬるい息と共にそんな言葉を吹きかけてくる園田に、こくこくと頷いて桜城は唇を噛んだ。園田からされることを耐えるしかなかった。  ある日、園田がいつものように桜城の腰へ腕を回しかけた時だ。「園田先生」と呼ぶ声があって、はっとして振り返れば、五十嵐が校舎のわきに立っていた。  それなりに疚しいことをしている自覚はあったのだろう。園田は咄嗟に桜城から腕を引っ込めた。取り繕った笑顔を浮かべて爽やかに歯を見せ、五十嵐に返事をした。 「どうした、こんな遅い時間に」 「桜城君と一緒に帰る約束をしていたのですが、なかなか戻って来ないので迎えに来ました」 「おや、そうだったか。ちょうど水遣りも終わったしな、帰っていいぞ、桜城」  心当たりがない桜城は驚いた。それでもこの助け舟に乗らない手は無い。ともかく園田から逃げられると、桜城は五十嵐の傍に駆け寄った。 「さようなら」 そう挨拶した五十嵐は、去り際に一言、付け足した。 「園田先生、桜城君は嫌がっています。いつもなさっているようなことは、二度としないでください」  園田の顔色が変わった。五十嵐は刃物のような鋭さで園田を睨んでいた。 桜城はひっくり返りそうになった。自分が何をされたのか五十嵐は知っている。その衝撃に気が遠のきそうになった。  五十嵐は園田にぺこりと頭をさげると、桜城の袖を掴んで昇降口へと連れて行った。 「このことは、俺は誰にも言わん。もし誰かに相談するなら、きみがしろ」  五十嵐が言った。  園田からの被害についてはひどく不名誉に感じていたから、桜城は誰にも知られたくなかった。だから五十嵐が「誰にも言わない」と約束してくれたことがありがたかった。むろん、誰かに相談するつもりもなかった。  昇降口に置いてあった自分の鞄を引っ掴んで五十嵐は「じゃあ、明日」と挨拶を残して去っていった。茫然としていた桜城だったが、園田にまた会わないように慌てて教室に鞄をとりにいくと、自分も急いで帰途についた。  それから園田は花壇に来なくなった。五十嵐のあの一言が効いたのだろうと桜城は感じていた。  その代わり、園田はよく五十嵐を殴るようになった。  特段悪いことをしていないのに、授業の邪魔をしている、お前のせいで皆がうるさいのだと非難を浴びせては、指導だと言って平手で頬を打った。今から思えば難癖としか言いようのない理由だったが、担任の恐ろしい剣幕にどの生徒も口出しできなかった。  桜城にはなんとなく分かった。あの日、五十嵐が園田の行為を止めたから、五十嵐は園田に殴られているのだ、と。五十嵐は園田の逆恨みを買ってしまったのだ。 「――なのにわたしは、きみが園田に殴られるのを黙って見ていることしかしなかった。意気地がなかったのだ。…申し訳なく思っている、五十嵐。でもあの時、園田から助けてくれたことは、一生、恩に着る。ありがとう」  立ち止まって五十嵐に向けて頭をさげると、五十嵐も足を止める。顔をあげると、五十嵐は唖然としたように固まっていた。まさかこの話を桜城が蒸し返そうとは思いもよらなかった、とでも言いたげな表情だった。 「あれは、俺が許せなかっただけだ、あのような卑怯者がいることが…」  五十嵐が小さく呟く。それだけで誠実な性格と清冽な正義感が伝わってくるようだった。  桜城はくすっと笑った。 「まったく、わたしはあなたに助けられてばかりだな」  桜城は五十嵐を見つめた。五十嵐も桜城を見つめている。  警官の制服である詰襟姿の五十嵐は、背後の竹林の前でまさに竹のように凛然と桜城の目に映る。この男が身近にいてわたしは運が良かった。そう桜城は思った。 「きみのほうがつらかったろう」  五十嵐の声が桜城の心にゆっくりと沈んでゆく。光の塊のように、眩しいぬくもりを煌々と放ちながら。
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