前 ・ 思い、焦がれ

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 季節は初秋に移り、川縁(かわべり)には曼殊沙華が群れを成すようになった。 「日に日に増えているな」  桜城は、「ああ」と同意した。 「少し見ていかないか」  五十嵐が誘うので、川縁で赤い絨毯をしきつめている曼殊沙華に二人で近づいた。  瑞々しくつややかな赤い陰翳は、この世のものとは思えないほど神秘的な美しさを装いながら、桜城の目に焼きつく。 「本当に綺麗だ」  ひとりだったらやはり怖いかもしれないが、今は五十嵐と一緒だから平気だった。 「子供の頃は、この花が恐ろしかった。死人花という別名があると聞いて――――」  桜城は赤い群生にあらためてまなざしを落とした。 「兄に脅かされたことがあるのだ。おばあ様が生きていた時にお前が一番可愛がられたから、死人花が咲くころには、おばあ様の幽霊が見えるぞ、と。それが怖くて、この季節には曼殊沙華の咲く路を避けて通学した。おばあ様のことは好きだったけれど、幽霊となると怖くて」 「その話、今でも信じているのか?」  からかうような問いかけに桜城は首を振った。 「さすがに大人になったから。ほら、珍しいな。白いのなんて」  夜闇の中、真っ赤な血だまりに咲く白い曼殊沙華は清冽な純粋さを湛えていた。 「きみは白い曼殊沙華の意味を知っているか」  抑揚のない声で五十嵐が訊ねた。 「いや」 「『思うのは、あなた一人』」  婀娜めいた言葉を聞かされて、桜城は言葉を失う。  五十嵐は感情の読み取りにくい無表情で桜城を見つめている。二人の視線はそのまま絡まりあい、桜城はその黒瞳に吸い込まれるような錯覚に陥った。五十嵐の唇が再びゆっくりと開く。 「『あなたが欲しい』」  単なる花言葉を教えてもらっているだけなのに、まるで恋の告白を聞いているような落ち着かない気分になった。 (これが五十嵐自身の言葉だったなら、どれほど嬉しいだろう)  そう感じている自分に気付き、いつにないわななきを覚える。 「帰るか。遅くなるしな」  五十嵐が淡々と続ける。 「――ああ」  五十嵐が立ちあがる。桜城も腰をあげた。  冷やかすような風が吹き抜けた。このとき桜城は落ちていた。五十嵐を恋しく思う深まりに――――。 (ただ、教えてくれただけだ)  花言葉に淡い期待を持つほどには能天気ではない。  期待はただの思い過ごし。あらかじめそう割り切っていた方が後々の心の痛みは少ない。  この恋心は、けして五十嵐に知られてはならないだろう。知られれば友人としても付き合ってもらえなくなるのではないかという不安は、桜城をおののかせるに充分だった。  少なくとも、五十嵐は自分を大切な友人として扱ってくれている。  桜城にはそれが分かったし、だからこそ自分の恋心などで波風を起こしたくなかった。仕事の後で五十嵐と帰る道程は、疲れを忘れるほど居心地が良かったし、少しでも長く一緒にいたいと願う桜城にとってそれだけで宝のような時間だった。
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