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僕と彼女は何が起こったのかわからず、盗難だと気付いたのは5分以上も経ってからだった。
治安が悪い国だと有名だけど、まさかの堂々たる盗っ人ぶり。
僕らはコンパートメントのドアを細く開けた隙間から顔を出して「泥棒! 泥棒!」と叫んだ。叫び続けた。日本語だったが(そんなイタリア語、とっさにわからん)、ただならぬ雰囲気は伝わったらしく、他の乗客も騒ぎ出した。
そんな中で、親切そうなイタリア人男性が「ちょっと待ってて」といったジェスチャーで僕らをなだめ、間もなく荷物が返ってきた。
彼女のボストンバッグは、外ポケットにあった傘がなくなったというが、ロックはしてあったので中身は無事。僕のスーツケースも被害なし。
これを奪おうとした不届き者はノンストップ電車の中では逃げられず、その親切ジェントルマンに荷を返すしかなかったのだろう。
という、ちょっとしたピンチを共有した僕と彼女は一気に親睦度が増し、日本へ帰ってからも会うようになったのだった。
花の都フィレンツェで、サンタ・マルタ・デル・フィオーレ大聖堂を堪能した後は、ウフィツィ美術館でボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」を鑑賞――という計画は全消し。後の予定が詰まっていて、やり直す時間はなかった。
旅行とは、予定通りにはいかないものなのだ。
でも僕は、強烈な思い出と、彼女との出会いを手に入れた。
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