壱の章 発端

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壱の章 発端

 慶応3年11月15日――京都の近江屋である男が斬殺された。男の名前は坂本龍馬(さかもとりょうま)といい、明治維新に大きく関わったとされた。特に彼が提案した「船中八策(せんちゅうはっさく)」は、その後の日本政府に大きな影響を与えたとされる。  それから数年後、僕は東京の新聞社で働いていた。「散切(ざんぎ)り頭をポンと叩けば文明開化の音がする」とは善く言ったものであり、この数年で日本国を巡る動きは大きく変わった。廃藩置県(はいはんちけん)に伴って「江戸」という地名は「東京」に変わり、新橋と横浜の間には鉄道が敷かれるようになった。それで僕の生活が便利になるかと思えば――割とそうでもないのが現実である。  そんな中で、僕は「京都のある場所に行ってほしい」という仕事を受け持つ事になった。なぜ――戊辰戦争(ぼしんせんそう)の敗戦国に僕が行かなければならないのか。正直言ってそれが分からなかった。しかし、上司の命令は絶対である。 「増澤君、君は薩摩(さつま)藩――すなわち鹿児島県の出身だから、京都へ取材に行くのは抵抗があるかもしれない。しかし、これは我が東都日日新聞の威厳にも関わる取材になる。そのためには、増澤君の力が必要なんだ」 「しかし、あんな場所に行って何になるんでしょうか? 京都は戊辰戦争で廃墟となり、天皇も東京へとお戻りになられた。もう、あんな場所に用事はないと思うんですよ」 「まあ、そんなことは言わずに。増澤君は、坂本龍馬を知っているか?」 「当然知っています。今の日の本の基礎を創り上げたのは――彼ですから」 「実は、坂本龍馬が命を絶った場所である『モノ』が見つかったんだ。増澤君には――その『モノ』を調査してほしい。これは――東都日日新聞でしか知り得ない記事になる」 「そ、そうですか……」  編集長が言うには――どうも、龍馬が暗殺された場所で重大な資料が見つかったらしい。僕、増澤諭一郎(ますざわゆいちろう)が働く東都日日新聞は、まだまだ出来て間もない新聞社だ。日本に新聞という概念が伝わったのは維新前だが、その時はまだ英字で書かれており、英語を勉強していなかった僕には何が書いてあるのかさっぱり分からなかった。今から2年前――すなわち明治3年に、漸く日本語の日刊新聞である『横浜毎日新聞』が創刊された。それから――東京でも新聞の創刊が相次ぐことになった。東都日日新聞は、そういう新興新聞社の1つに過ぎない。故に、発行部数も低迷しており――斬新な記事の掲載が求められるようになった。  仕方がないので、僕は京都まで取材へ行くことにした。なんというか――状況は複雑だった。僕は鹿児島出身なので、戊辰戦争では京都は敵国に相当していた。結局のところ、戊辰戦争は薩摩と長州による薩長軍率いる新政府軍が勝利して、京都と会津が率いる幕府軍は敗北した。戊辰戦争が勃った頃、僕はまだ薩摩に住んでいたので――西郷隆盛(さいごうたかもり)が英雄として祭り上げられていた。しかし、同じ日の本に暮らす人間同士で殺し合いを行うなんてどうなんだろうか。僕は複雑な状況で戦況を見つめていた。  そういえば――京都には「新選組」という会津藩直属の浪士隊がいたな。彼らが戊辰戦争の引鉄になったのを善く覚えている。所謂「攘夷(じょうい)派」の人間を殺すという組織だったか。坂本龍馬も新選組に殺されたのだろうか。そんな事を思いながら、僕は汽車の窓から移りゆく景色を見つめていた。
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