肆の章 以蔵

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 僕の中にいる坂本龍馬が此の世に顕現しているということは――当然僕の思考の主導権は龍馬に握られている。そう思いつつ、僕は坂本龍馬として話を進める。 「わしは――おまんに会いたかったき」 「本当に龍馬なのか」 「どういう訳か、近江屋の騒ぎで殺されたわしは――此の世に戻ってきたようじゃき」 「面白いじゃないか。そういう伝奇の読み物があれば読みたいが――これは読み物じゃなくて本当の話のようだな」 「おまんは、土佐勤皇党の生き残りらしいな。土佐勤皇党が政府軍によって壊滅させられた後――どういて生き残ったんがじゃ?」 「私は――運良く新政府に拾われた人間だ。そして、この兵庫という地で判事を勤めることになった。先日は岩倉具視が率いる使節団に加わって、異国の地をこの目で見てきた」 「海の向こうは――どういう風に見えたがじゃ?」 「龍馬が思っている以上に、異国の地は面白く見えた。あのご一新があって、今の明治政府は成り立っているが――矢張り異国と比べて日の本はまだまだ未熟だ。だからこそ――龍馬にもこの地を見てほしかった。私はそう思っている」  矢張り、この日本という国は未熟なのか。意識を龍馬に乗っ取られている中でも――田中光顕との話は興味深いものだと思っていた。これは、記事の執筆も捗るだろう。  田中光顕への取材を終えたあとも――僕の魂はまだ龍馬に乗っ取られたままだった。この状態で神戸の地を彷徨(さまよ)っていたら――曲者だと思われてしまう。そんな事を思っているうちに――僕は背後から寒気を感じた。 「テメェ、坂本龍馬か!」  怒号が、背後で鳴り響いた。怒号の主の手には――刀が握られている。 「おまんは誰じゃ」 「俺は――誰でもいい。とにかく、俺はお前に家族を殺されたようなものだ。その命――俺が貰い受けるッ!」 「おもしろいのう。じゃが――わしはおまんに対して興味がないぜよ」 「ならば――死ねッ!」  この男性は――龍馬に対して恨みを持っているのか。僕は、刀を抜いた。明治の世の中で――こういう刃傷沙汰(にんじょうざた)はあってはならない。その刹那、僕は一瞬の隙を見て男性の和装を切り裂いた。 「わしは――人を殺めることはしないぜよ」 「クソっ!」  男性は――(ふんどし)一丁というあられもない姿になっていた。どうやら、僕は自分の手で人を殺すことはしないらしい。
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