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弐の章 怨念
「新選組は既にこの地にいない。彼らは遥か北の蝦夷という場所で果てたと言う。――それでも、俺を殺す気か」
浪士の1人が、僕に声をかけてくる。厳密には――僕ではなく「僕の中にいる龍馬」に対して声をかけていたのだろう。僕の意思に反して――龍馬の怨霊は口を開く。
「そうじゃき。わしは――おまんを殺す」
「そうか。ならば――その命は頂いていく!」
ここは――刀を抜くしかないか。そう思っていると、僕の頭の中でまた声が響いた。
「おまん、人を殺したことはあるかえ?」
僕は、その質問に答える。答えは――決まっていた。
「当たり前の話だけど、人なんて――殺したことがない」
「それじゃあ、ちょっくら暴れるとするかえ」
僕は――無意識のうちに刀を抜いていた。後で分かったことだが、龍馬が使っていた愛刀は「陸奥守吉行」と呼ばれる刀だったようだ。もちろん、この事実は新聞の記事にも載せた。もっとも、龍馬は刀よりも拳銃を好んで使っていたようだが。
「その太刀筋――矢張り、北辰一刀流か。俺は我流だが、腕はこちらの方が上だッ!」
その刹那、僕は足元を見つめて間合いを入れた。
「おまん――足元がお留守ぜよ」
「何ぃッ!?」
どういうわけか、僕は浪士の足元に向かって一直線に切り裂いていった。当然、斬撃を受けた浪士は負傷している。
「くっ……」
「拳銃で止めを差さないだけ――まだ救いがあると思うぜよ。わしは――悪人を殺さんぜよ」
「人を殺さないだと? 俺は会津の出だが――十分悪人だ。殺されるべき人間だろう」
「いや――おまんは目当ての人間じゃないき。今回は見逃しちゃる」
「そうか。俺の命は取っておくのか」
「そういや、おまん、名を聞いてなかったき」
「ああ。俺は――平塚礼吉だ。覚えておけ」
平塚礼吉と名乗った浪士は――そのまま踵を返して去っていった。そして、僕だけがその場に取り残された。
僕は、もう一人の僕――龍馬に話しかける。
「――これから、どうするんだ」
龍馬は、意外な一言を発した。
「もう、ここに用事はないぜよ。宿に戻るき」
旅館に戻る途中――僕はあることを考えていた。僕という人格は、坂本龍馬の怨霊に乗っ取られてしまったのか。それとも――本当に坂本龍馬という人物が僕を介して生き返ったのか。いずれにせよ、僕は憑物落としの元へと向かったほうが良いのかもしれない。しかし――京の都にそういう人物はいるのだろうか。かつて、平安の世の中では安倍晴明という人物が「陰陽師」を名乗ってそういう憑物を落としていたようだが――今は明治だ。そんな旧世紀のような怪異がある訳ない。あったとしたら――それこそ京の都は化け物で溢れてしまう。百鬼夜行どころの話ではない。
やがて、僕は旅館へと辿り着いた。当然――僕の姿は元の洋装に戻っていた。
「あら? 諭一郎さま、夜も深いのにどこをほっつき歩いていたのですか? まさか――丑の刻参り?」
「いや、そんなつもりはなかったんだけど――どういうわけか僕は何者かに意識を乗っ取られてしまったらしい。なんというか――イタコとか、口寄せとか――そういう類のモノか。とにかく――僕は無意識のうちに坂本龍馬へとなってしまったようだ」
「またご冗談を、そんなこと――ある訳ないじゃないですか」
「そうだよな。まあ――僕は風呂に入って寝る。布団を手配しておいてくれ」
「分かりました」
湯に浸かっていると――なんだか疲れが一気に出てしまった。まさに「憑物に憑かれた」かのように疲れてしまったのだ。それにしても、龍馬の怨霊か。あの黄金髑髏から出てきて――僕は龍馬に意識を奪われた。というよりも、龍馬になってしまった。それで、壬生寺で浪士を相手に剣戟を繰り広げた。ただし――相手の命は奪っていない。仮に僕がその浪士を殺していたら――罪に問われる。明治の世において、当然辻斬りなんてあってはならない。最近、「内務省」という組織が新しい治安維持組織の設立のために川路利良という人物を欧州に派遣したと聞いた。川路利良自体は僕と同じ薩摩の出――つまり鹿児島出身だ。新政府軍と幕府軍による戦の勝者は言うまでもなく新政府軍だったのだが――もしかしたら、彼もあの戦禍を生き抜いたのだろうか。しかし、本当に新政府軍が勝ってよかったのだろうか? 僕はそれが分からなかった。
色々な事を考えつつ、僕は風呂から上がった。その後の記憶は――当然なかった。
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