千人針

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千人針

 夜の東京湾に孝一の姿があった。沖合に停泊戦艦で戦地に赴くところだった。 出兵してここにたどり着くまで、焼け跡ばかり見てきた。 東京は特にひどかった。一面が焼け野原だった。 行き場のない住民達はそこで暮らすしかないようで、燃え残った木片などを利用して器用に生活していた。  時々地面から人が出てくる。 孝一はその度驚く。 防空壕を住処にしていたからだった。 家を焼かれて行き場のない人達は、小さな洞穴で肩を寄せ合って生活をしていたのだった。 孝一は改めて秩父に育ったことを感謝した。 秩父にも確かに空襲はあった。でもこことは規模が違った。  十一月二十二日より始まった首都東京空襲。 その後も度重なる攻撃で、壊滅的な大打撃を受けていた。 孝一は日本が危ないと思った。みんなが言っている神風が早く吹くことを願った。 日本の歴史の中で高まってきた神風神話。 最後には必ず日本が勝つと、孝一自身も信じていた。 だから孝一は自分を神風にしようと思った。 何が出来るか分からない。でもやらなくてはいけないと強く感じていた。 必ず帰って来ると、八重子に誓ったことを忘れたわけではなかった。 でも心が騒ぐ。ただひたすら御国のために戦いたかった。  ふと、親戚の家に間借りしている一郎を思い出した。 一郎は頭がいい子で、ラジオで聴いただけで歌を覚えて歌っていた。 『日本には神風が吹くから、戦争は絶対勝つ』 そんな大人顔負けの事も言っていた。 「一郎君。お兄ちゃんに一郎の力を貸してくれないか?」 孝一は一郎に憧れていた。 もし、八重子に子供が出来たなら一郎のように育てよう。 孝一はそう思っていたのだ。 一郎の言葉通り、自分も神風が吹いて日本が勝つと信じていたのだ。  小舟が何隻か戦艦に向かっていた。 星と月明かりだけを頼りに姿の見えない戦艦を目指す。 それに不安がなかった訳ではない。 それでも、戦友達の士気は上がっていた。 東京の街を壊滅状態にした連合軍と戦いたくて仕方ないのだ。 自らを神風にしたいと願ったのは孝一だけではなかったのだった。  真っ暗な海は夜空の力によって不気味に光る。 それが一層上気させていた。 怖くない訳がない。それでも心は逸る。 やっと自分の赴任先が決まり、皆安堵していたのだった。 自分自身をお国に捧げる決心をした孝一に、もう未練はなかった。 それでも身体が震える。武者震いだ孝一と思った。 孝一は戦友達と一緒に、ただその時を待っていた。  それなのに孝一は、気持ちを落ち着かせるために千人針に手を持っていった。 孝一は出兵前夜なかなか寝付けなかった。 夜叉のように狂って八重子を求めた自分を悔いていた。 それでもまだ心の奥の欲求に勝てないでいた。 一晩中でも八重子を抱き締めていたかった。 そんな自分が情けなくて、寝た振りをしていた。 孝一は泣いていた。 目が覚めれば引き離される女房が尚更愛しかった。  時々八重子の息づかいが聞こえる。その度白い息も見える。 何をしているのだろうと孝一は目を凝らした。 八重子の息は手を温めるためだった。その手元を見て孝一は絶句した。 八重子は昼間もらった千人針を本物にしようとしていたのだ。  春とは言っても秩父はまだ底冷えがしていた。 八重子は自分の愛の全てを掛けて孝一を守ろうとしていたのだ。 八重子は自分を責めていた。 愛する人を死線から守ると言う千人針を用意していなかったのだ。 嫁げたことに浮かれていた。孝一は二十二歳だった。その上甲種合格していた。何時召集令状が来てもおかしくなかったのだ。 そのことは容易に予測出来た筈だった。 だから千人針を見た時、あんなに泣いたのだった。  悔しかった。恥ずかしかった。 心の中まで見透かされているようだった。だからこそ負けたくなかった。 泣きながら出した答えがこれだった。 でも街頭に立ち、歩いている人に縫ってもらう時間などあろう筈がなかった。 一人で一針、二百人分もの針を集めてくれた人もきっと苦労したことだろう。 八重子は自分の行為を愚かだと思った。それでも愛する人を守りたいと必死だったのだ。  一人一針が原則のはずなのに、歳の数だけ縫っては止める八重子。 偶々八重子は昭和元年の寅年生まれだった。 寅は千里を駆けて千里を戻ると言われていた。 無事の帰還を願う格好の干支だったのだ。 だから寅年の女性だけには年の数だけ結び目を付けることが許されていたのだった。 五銭は死線を越える。 十銭は苦戦を越えると言われ、千人針には縫い込められていた。 八重子はそれらと一緒に、縫い目で寅の刺繍を施していた。 でも孝一の目には猫に見えていた。 それは八重子の優しさ故だと思っていた。  孝一の脳裏に、八重子とまだ見ぬ子供の顔が浮かんできた。 それは一郎にそっくりだった。 孝一はこの時、八重子が命を受け継いでくれたと確信した。 ――これで死ねる―― 孝一は自分を神風にする瞬間が早く来ることを願っていた。
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