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学徒出陣
孝一は千人針に手を置きながら一足早く戦場へ向かった友に思いを馳せていた。
昭和十八年の十月二十一日に神宮外苑で行われた出陣学徒壮行会に見送りにも行った間柄でもあったのだ。
その日は生憎の雨で、行進した生徒達の足元はずぶ濡れだった。
太平洋戦争の戦局の悪化に伴い、二十歳以上の学生が徴兵猶予を解かれ兵士として戦地に向かうことになったのだ。その数およそ二万五千人。
場所は第二次世界大戦勃発で中止になった東京オリンピックの会場になる筈だった国立競技場だ。
学生達はこの壮行会の後、戦争の真っ只中に送り込まれることになる。
激しい雨の中銃剣を担ぎ、勇ましく行進する姿に孝一は憧れを覚えた。
『俺も行くから待っててくれ』
その年に甲種合格になった孝一は何処かにいるはずの友に向かって声を掛けた。雨の音にかき消されそうな声だったけど、精一杯張り上げたのだ。
陸軍に入隊してアメリカ軍の本土上陸に備え日本で戦う者も、後に特攻隊と呼ばれる部所に志願する者もいる。
孝一の知人がどの道を行くのかは知らない。それでも武者震いをしていた。
自分の元に早く赤紙が届くことを孝一は願っていた。
その頃学生は将来を背負う人材として優遇されていた。二十歳になっても兵役は免除されていたのだ。
それは徴兵猶予と言うものだった。
孝一が徴兵検査を受ける頃に、徴集延期證書と書かれた書類を知人に見せてもらっていた。
高校生や大学生は幹部候補生になりうる存在として期待されていたからだ。
明治天皇陛下も゛軍国多事の際といえども教育をおろそかにすべからず゛と現している。
昭和の天皇陛下も青少年ニ賜リタル勅語で゛学徒の双肩にあり゛と書かれている。学生は勤勉に励めとのおっ達しも今は昔のこととなったのだ。
でも次第に時代の波に呑まれていく。
『お前等は何だ。サボって兵隊に行かないじゃないか』
『大学生だって兵隊に行くのは当たり前だ』
世間の目は厳しく、そんな声が聞こえはじめる。
『もう、日本人として認められないのではないだろか?』
『のけ者だけにはなりたくない』
追い詰められ、長い物には巻かれるしかない風潮になっていったのだ。
でも大学生達は人が何と言おうと好きな学問に打ち込みたかった。それが出来ない方向へと舵取りがなされたのだ。
『将来のある若い学生達を戦争に出すというのはとんでもない話だ』
大学の関係者の中にはそう言って、国の方向転換に異論を唱える者もいたが、何の抵抗も出来ない時代だった。
船の上でふと孝一は、出陣学徒壮行会での場面を思い出していた。
「『生等もとより生還を期せず』か?」
それは壮行会の時の答辞だった。
『生等いまや見敵必殺の銃剣をひっさげ、積年忍苦の精進研鑚をあげて、ことごとくこの栄誉ある重任に捧げ、挺身をもって頑敵を撃滅せん、生等もとより生還期せず』
それは孝一の心に染み渡った。
後に特攻隊を目指した友人の言葉だとも思えたからだった。
生死を超越して必ず敵に勝つと誓ったのだ。
昭和十六年二月十四日。徴兵猶予に関する議題が初めて論じられた。
東京帝国大学総長に、卒業時期を早める繰り上げ卒業を要望してきたのだ。でも各帝国大学総長達は揃って反対した。でも次第に抑えられなくなりその年の十月十六日、遂に要望を呑むことになったのだ。繰り上げ卒業が臨時短縮と形で決定された。
その二日後、臨戦強力内閣が成立した。
徴集を延期させるために卒業を遅らせている学生がいるとか、大学もけしからんとかの意見もあったようだ。
悠長に学生生活を送らせるより、第一線に立てなければならない。
そのような意見が沢山あり、学徒出陣が決まったのだ。
本当の目的は学生に対して多少の制限を加えれば、二、三万の優秀な幹部候補生を得られると踏んだからだった。それでも少し行き過ぎではないかと考えて調整しながら工夫したようだ。
その結果、十二月卒業が発表された。多くの学生は新聞によってしることとなったようだ。
政府の役人や大学の関係者の思惑は計り知れないけど、受け入れなければならない現実がそこにあったのだ。
その年の十二月八日。
真珠湾攻撃によって太平洋戦争が開戦された。
昭和十八年九月二十二日。
突然、徴兵猶予の停止が発表された。政府は学生を直接戦争に参加されることを決定した。それは戦争の準備のためだったのかも知れない。
その結果、壮行会後に多くの学生達が戦場に送り込まれることになったのだ。
実は孝一も出兵を猶予されていた友をうらめしがっていた。
それでも自身の甲種合格を誇りに思っていた。
孝一は今、お国のために戦える力があることが嬉しくて仕方なかったのだ。きっと友人もそうだったろうと思った。
殉国の至情仰
大学関係者は国策に沿わないとずっと反対している者もいた。教育を守ることは国家から与えられた使命だったからだ。
何故繰り上げ卒業を要望してきたのか?
最近の緊迫する国際情勢に対処するため、軍の幹部要員の不足を急ぎ補充しなければならなかったのだ。
満州事変を経て日中戦争に突入した日本。軍は百万もの兵を展開していた。
更にフランス陵インドシナにも進駐。そのことでアメリカとの対立も深まっていく。この頃軍は部隊を次々と送り込むために、幹部要員を多数必要としていた。幹部の補充を図ろうと大学側に繰り上げ卒業を求めていたのだ。
法科の学生に対して多少の制限を加えた場合、二万なり三万なりの優秀な幹部候補生を得られる。それらの発言は徴兵猶予の一部の声に配慮したと明かした人もいた。
本当は少し行き過ぎではないなあというように考えて調整しながら苦心して工夫したようだ。
孝一は友人からの手紙で航空隊に配備されたことを知る。
其処は後の特攻隊本部となる空港だった。
友人はお国のために死ぬ道を、神風特攻隊の道を選んだのだった。
孝一はこの時神風の言葉に憧れを抱いた。
だから自分も神風になろうとしたのだった。
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