李悲話

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李悲話

 八重子は節の使いで、庭で採れた李を届けるために親戚の家へ出かけた。 戦下の中でも夏はやって来る。八重子は青い空を見上げ、遠い孝一に思いを、馳せていた。  歩いて五分もしない所に、その親戚はあった。 地元の実力者の家長は、連れ合いの弟一家を招き入れて仕事などを教えていた。 秩父は銘仙と言う絹織物の産地だった。 弟はそれに使用する絹糸を染色していたのだった。 秩父銘仙はホグシ捺染という手法で縦糸に直接染色する。それゆえ裏表が無く、色褪せたら別の面で着られるので経済的な絹織物だったのだ。 弟は暈しと言う秩父銘仙独特の染色技法を熟知していた。 だから尚のこと重宝がられていたのだった。 兵役を終えて帰国したその弟には、三歳になる一郎と言う子供がいた。 孝一が夜の東京湾で思い浮かべていたのはこの子だったのだ。  一郎は利発だ。 父親が煙草と言うと、灰皿まで一緒に持っていくような子供のようだ。 だから八重子も一郎に好意を持っていたのだった。 「一郎君だったよね。私のこと分かる?」 「うん。浅見さんちの八重子お姉ちゃん」 八重子はその答えを、驚いたよう聞いていた。 「お姉ちゃん、頼まれた李を持って来たのだけど、家の人いるかな?」 「おばちゃんでいい?」 「うん、お願い」 「じゃあ、ここでちょっと待っていてね」 一郎はそう言うと、すぐ中に入っていった。  「まあまあ八重子さん、よく来てくれたわね。さあ中へ入ってお茶でもどう?」 実力者らしい広い玄関。八重子はここに来る度恐縮する。 「吊し柿でいいかしら?」 お茶だけではない。お茶受けもある。 流石だと八重子は思う。 と言っても、自分の家で飲むだけのお茶の木は庭にある。柿の木もそうだった。 八重子は門の近くにある柿の木を見た。木陰は一郎のかっこうの遊び場になっていた。 八重子は吊し柿を食べながら、一郎を見つめていた。 「八重子、もしかして赤ちゃん?」 おばさんの問いに、八重子は恥ずかしそうにうなづいた。 あの金昌寺参拝時の孝一の望みのように、八重子は命を引き継ぐことが出来たのだった。  一郎が歌を唄っている。ラジオでよく流れている、お山の杉の子だった。 「頭がいいのよ。こんなに小さいのに、ラジオで聴いただけで覚えてしまう。それにいけないと言われたことは決してやらない。それとね、日本には神風が吹くから、戦争は絶対勝つ。なんと大人顔負けの事も言うのよ」 「偉いのね。私の子供も、一郎君みたいに育ってくれるかしら?」 八重子は憧れるように一郎を見た。一郎はさっき届けたスモモを食べていた。 「八重子さんなら大丈夫。心配しないで。きっといい子に決まっているわ。だってあなた気立てが良くて素直だもの」 「そんなこと……」 八重子は恥ずかしそうに俯いた。  暑い夏。 それに加えて、アメリカ軍の連夜の爆撃。 人々は不安な夜を過ごしていた。  そしてもう一つ、もっと眠れなくする出来事が起こった。 一郎が高熱を出して倒れたのだった。 すぐ医者が呼ばれた。 だが手当てする方法がなかった。 薬が底をついていたのだ。 高熱の原因は、八重子の持っていったスモモだった。 一郎は昼間食べたスモモにあたり、大腸カタルと言う粘膜に炎症を起こす病気になってしまったのだった。  八重子は節と久と共に駆けつけいた。 手に汗を握りながら、全員が太郎を気遣っている。 熱が全身に回っているらしく、冷たい井戸水でいくら冷やしても駄目だった。 「一郎のばか!」 一郎の母は取り乱していた。 「そうだ氷。氷があれば……」 誰が言った。 一郎の母は慌てて外に飛び出した。 それを見た八重子はすぐに後を追った。 「私が行ってきます。お母さんは一郎君の側にいて下さい。一郎君が淋しがる」 八重子はそう言うと闇の中に消えていった。 じっとしていられなかった。 一郎の苦しむ姿を見ていられなかった。  ――スモモをもっと洗っておけば良かった―― 八重子は自分を責めた。自分のせいで一郎が衰弱していくのを見ていられなかった。 半狂乱になりながら八重子は急いだ。 今自分が一郎のために出来る全てのことをやりたいと……。  一郎の家から氷屋まで、どこをどう走ったのか分からない程八重子は無我夢中だった。 途中何度も転びそうになりながら、八重子はやっとたどり着くことが出来たのだった。 でも、氷屋の戸は固く閉まっていた。 八重子は必死になってその戸を叩いた。 「氷はないんだよ。機械を止めているからね。こんなご時世じゃ」 やっと出てきてくれた主人はそっけなく言った。  月の光にぼんやり浮かび上がる八重子の姿を見て、主人は腰を抜かした。 「お化けか」 主人はやっとそれだけ言った。 八重子はその言葉を聞き、ガラス戸にうっすら写る姿を見てに驚いた。 髪の毛を振り乱し、ボーッとたっている自分がいた。 「違う、私はお化けでも幽霊でもない」 八重子は必死に一郎の高熱と、その原因が自分にあることなどを話した。 八重子の話を聞いて気の毒に思ったのか、営業中だという別の商店を教えてくれた。 八重子は早速そこへ向かった。 でもいくら戸を叩いても誰も出てきてくれなかった。  一郎の家に着くなり八重子は土下座をした。 そんなことで許してもらえるなどとは思ってもいなかった。 でもひたすら詫びたかった。 「あなたのせいじゃないのよ。食べる前に手を洗わなかったこの子が悪いの。ごめんなさい、八重子さんにこんな思いさせて」 泣きながら、一郎の母が言っていた。 その言葉で八重子は少し落ち着いていた。 「そうだ一郎君」 八重子は一郎に引き寄せられるように、枕元に走り寄っていた。 身も心もボロボロになった八重子を、節は思わず抱きしめた。 「氷なかったの」 辛そうに言う八重子に節はただ頷くことしか出来ずにいた。 八重子だけが悪いのではない。自分がスモモを届けるように言ったからなのだ。 「ごめんなさい。ごめんなさい」 節は八重子に詫びながら尚も抱き締め続けた。 八重子は、そんな節の辛そうな目を見つめて泣いていた。 「あんたが余計なこと言うから」 叱られている人を見て、八重子は首を振った。 「でも良かった、おなかの子供が無事で。あの時、私が傍にいたのに」 おばさんが泣いていた。  「子供? 孝一のか。あいつも到頭親父か」 「それなのに、夜道を走ったのか?」 驚きの声を上げる人に、みんなうなづいた。  一郎の息遣いはますます荒くなっていた。 「日本は勝つよね」 うめき声にも似た一郎の言葉。 「そうだ、日本は絶対に勝つぞ。一郎偉い。偉いぞ」 一郎の父は、健気な息子をほめたたえながら泣いていた。 「神風が吹くから日本は絶対に勝つ!」 断末魔にも似たような一郎の言葉を聞きながら、八重子は手を合わせてすがるように医者を見た。 医者は首を振った。  一郎はもう助からない。でも助けたい。 八重子は強く思い、狂ったように働き出した。 何度も何度も井戸水を替え、一郎の熱い身体を拭き、励ましの声を掛けた。 でもそんなかいもなく、一郎はその日の明け方息を引き取ってしまった。 まだ三歳の幼い命は、日本が絶対に勝つと最後まで信じながら、燃え尽きたのだった。
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