闇からの脱出

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闇からの脱出

 「ずっとここにいたんですよ。病室に入れなくて。何しろ怪我人と病人でいっぱいでしたからね。それにここの方が涼しいし……」 看護婦の指の先に、床に転がって眠っている孝一がいた。 久は無我夢中で駆け寄った。  孝一は激痛に耐えて港に泳ぎ着いた。 ――助かった―― それが素直な気持ちだった。 でもすぐ現実とぶち当たる。 ――助かったのは自分だけなのか? 他に生存者はいないのか?―― 意識もうろうとなりながら、孝一は港で戦友を探し廻った。 ――いる筈がない―― 孝一は妙に納得して、自分が今まで格闘していた暗い海を見つめた。 闇の中にぽつんと炎が見えた。 孝一には、それが戦友達の魂玉のように見えた。 孝一は思わず手を合わせようとしてハッとした。左腕がもぎ取られていたのだ。  孝一にはそれからの記憶がない。 激痛と、港に着いた安心感、左腕が無くなったという恐怖心のためか、その場で意識を失ってしまったのだった。  気が付くと孝一は、今の病院の、今いる場所に寝かされいた。その間意識がなかったのだ。 夢の中で孝一は、八重子の面影を求めてさまよっていた。孝一の脳裏には、優しい八重子の姿だけがあった。死の淵にいた孝一にとって、八重子だけが生きる支えになっていた。  八重子を両手で抱き締めたかった。 やっとめぐり会えた、八重子の幻影に向かって手を伸ばす。そして片腕の無いことに気付く。孝一はその度暗闇に落とされる。 そして、突然現れたB29の攻撃を目の当たりにする。小船の中で息絶えていく戦友達。その悲痛に満ちた断末魔の声が孝一を苦しめた。  その上、容赦のない攻撃を受けても、自分だけが助かったという現実。 申し訳なさが、尚一層孝一をやり切れなくしていた。 孝一はそんな悪夢とも戦いながら、やっと生還してきたのだった。あの、激痛と戦いながら泳いだ夜と同じように、八重子の励ましの声だけを頼りに。  病院にいることが、やっと孝一の心にゆとりを与えたようだった。 周りの様子も窺える余裕も持てるようになった。 初めて見回した時のあぜんとした記憶を、孝一は時々思い出す。 よくこんなに集めたと思える程病院は怪我人でいっぱいだった。 行動を共にしていたという看護婦の話によると、収容されていた東京の病院が空襲に遭いかばい合って逃げたということだった。勿論その中には、意識不明の孝一も含まれていたとのことだった。  防空壕の中でも孝一は何度も死にかけた。 その度手厚い看護が続けられ、一命を取り留めることが出来たのだった。 孝一にとって看護婦は命の恩人だったのだ。  看護婦にその話を聞く度に、孝一は泣いた。 生きていることを恥のように思っていたからだった。 神風になりたかった。 御国のために何かをしたかった。たとえ小さな風でも、やがて大きくなると信じていた。とっくに自分など捨てた筈だった。 でも孝一は生きていた。死に直面しながらも、生きたいと望んだ自分がいた。でも生きていることに素直になれず、孝一は自分を責めた。夢の中で八重子に助けを求めたことさえも……。  そんな時、病院にお見舞いに来ていた知人と再会したのだった。 秩父からそれほど遠くない熊谷にいることを聞き、孝一は泣いた。 八重子と会えるかも知れない。孝一は初めて生きている喜びに震えた。 孝一は改めて、ここに導いてくれた看護婦達に感謝した。 もしかして、夢の中で何度も励ましてくれたのは八重子ではなかったかも知れない。この時孝一は、初めて自分の運の良さを感じた。  熊谷には昭和十年に開校した、陸軍航空本部長隷下の施設があった。 熊谷陸軍航空学校と言い、昭和二十年四月十七日に閉鎖されていた。 神風飛行隊。所謂特攻隊員は、此処から育っていったのだった。 だから熊谷市民は日頃から怯えていたようだ。 何時か空襲が来ると噂していたのだ。 でも孝一も此処に連れて来てくれた看護婦達も、そんな事実は知らなかったのだった。  熊谷は航空飛行隊の街だったから、古くから鉄道も発達していた。それは籠原まで続いていた。 何故籠原なのか? その答えは、其処にその学校があったからなのかも知れない。  東京湾の沿岸で身を確保された孝一は衰弱していた。幾度も生死の境をさ迷った。その度に施された手厚い看護。 孝一は看護婦達の献身によって生かされたのだと改めて思っていた。  上野発、籠原行きの列車。みんなそれで此処まで運ばれて来た。 孝一はそのように考えていたようだ。 詳しいことは何も知らない。看護婦達はきっと必死でこれに乗せてくれたのだろう。 孝一の今があるのは、全て看護婦達の死に物狂いの奔走によるものだった。燃え狂う炎の中を、患者達を守りながら逃げなくてはならなかった行動力。それを支えた責任感。全て彼女達の生きることへの執着心がもたらせたものだったようだ。  だからこうして、息子を求めて歩いてきた父とも再会出来たのだった。 孝一の目の前にいる久は、もはや幻ではなかった。孝一の目から涙が溢れた。  「お父さん? 本当にお父さん?」 信じられないのか、余りに待ち続けていたせいなのか、孝一はそれ以上言えなかった。 久も久で、言葉に詰まっていた。会えたらあれも言おう、これも言おうと、道中ずっと考えていたのに……。  久の苦しみは、生爪の剥げた足が物語っていた。孝一は目をしっかり開けて、久の痛々しい姿に見入っていた。 「本当にお父さんだ。夢じゃないんだね。嗚呼どんなにこの日を待っただろう。またこうして会えるなんて」 久は何も言わず、ただ孝一を見つめていた。 あの狭い病室の中で、何人もが生死をさまよったことだろう。久はあんなにも望んだ出兵が孝一を苦しめたのだと思っていた。  孝一を甲種合格にするために必死だった。 自分の食事よりまず息子だった。もう非国民扱いされたくなかった。 もし孝一が兵役を免れていたらこんな目には会わなかったのに。久は自分を押さえることが出来ずにいた。  人目など気にならなかった。久は孝一の横に倒れ込んで泣いていた。 「お父さん、何で泣くの? 俺にはまだ右腕があるんだよ。銃弾を幾つも受けても死ななかった俺だ。きっとツイているんだよ。それに会いたかった父さんとも会えた。こんな運のいい奴いないよ」 優しい孝一の言葉は、久を励ましていた。  久はようやく泣くことを止め、孝一の横に座り直した。 「立てるのか?」 孝一はうなづいた。 「歩けるのか?」 「少しなら」 「俺はおまえを秩父に連れて帰ろうと思っていた。八重子のためにもな」 「八重子。そうだ八重子の子供は?」 「知っていたのか?」 久は驚きの声を上げた。 「ああ。戦艦に向かう小舟の中で確信した。だから死ねると思ったんだ。御国のために命を捧げる覚悟をしたのに……」 孝一は拳を床に押し付けながら泣いていた。 「そんなに自分を責めるんじゃない。八重子と子供が泣くぞ」 「ああ分かった。やっぱり子供が出来ていたか。嬉しいよ。いい子ならいいな。そうだ、親戚にいる一郎君のような……」 それを聞いた久は言葉に詰まった。  久は覚悟を決めて、一郎が死んだ事実を話した。八重子の背負った苦しみ、心に受けた傷までも話した。一郎を死なせたくないと、必死で看病したことも包み隠さずに。 孝一の目から涙が溢れた。責任感の強い、優しすぎる八重子が今どんな思いでいるのか。 孝一は今すぐにでも帰ろうと思った。 でも、久は疲れ果てていた。孝一もまだ歩ける身体ではなかった。 二人は身体の傷が癒えるまでここにいるしかないと思っていた。
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