熊谷空襲

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熊谷空襲

 その夜の八時。ラジオが、明日天皇陛下の重大発表があると報じた。 ――戦争が終わる―― 孝一は直感した。 日本は負けたと思った。 それは孝一が行った先々で直面した、荒れ果てた大地が証明していた。 焼きただれた家、沈没していく小舟。脳裏に浮かぶ全てが、敗戦を意味していた。  ――命拾いをした―― 素直にそう思った。愛する八重子の元に戻れると思った。 二月には、可愛い子供が産まれるであろう八重子の元に……。  ところがその考えは、とてつもない大きな流れに巻き込まれようとしていた。 その夜、突然空襲警報が鳴ったかと思うと、B29による報復が始まったのだった。それは終戦になる前に、日本と戦うために持ち込んだ爆弾を使い切ろうとする、アメリカ軍による前夜祭的代物だった。  八月十四日午後十一時。熊谷空襲の幕が切って落とされた。 爆弾が雨のように降ってくる。逃げ惑う人の悲鳴が聞こえる。あっちこっちで火の手が上がる。熊谷の街が瞬時にして地獄と化す。 孝一のいる病院も例外ではなかった。焼夷弾が病院を直撃する。病院が延焼する。 孝一と久はそこから逃げるしかなかった。身体に傷を負った二人は互いをかばうように、それでも我を忘れて走り出す。火の粉がそんな二人に襲いかかる。 「荒川だ。荒川に行くんだ」 久が叫ぶ。 孝一に言ったわけではない。孝一をここまで連れて来てくれた看護婦達にだった。またみんなで逃げるために。 「先に行って下さい。父と必ず荒川まで行きますから」 「あっちだ!」 久が荒川方面を指さした。 看護婦達は軽く会釈をして、患者達を誘導していった。 「みんながんばれ」 孝一は声援を送りながら、まだふらふらの足で走った。 父を掴んだ手が、そんな息子と共に父とを走らせる。ボロボロになった父を。  突然父が倒れる。 孝一の力に負けて。 孝一が振り向こうとした時、久をめがけて焼夷弾が落ちてきた。その力で孝一は吹き飛ばされた。 ――これまでか―― 孝一は目をつむった。 でも死んだという感覚はなかった。孝一は恐る恐る右手を見つめ、その指でつねってみた。 ――生きてる!―― 孝一はやっと我に返った。  慌てて久の元に駆け寄る。そこで孝一の見たものは、半身になった久の遺体だった。 「お父……さん?」 半信半疑だった。 思わず手を見る。 其処にはまだ父と手を繋いでいた感覚の残っているように思われた。  孝一は暫くそこから動けなかった。足が震え、腰が抜けていた。 でも、孝一は勇気を振り絞った。 息子へのメッセージを、久が残してくれていたからだった。半身になって、殆ど即死の状態でも、父の指は自らの血で、"や"と記していた。 ――や……、八重子の"や"か―― 孝一は泣いていた。 息子を郷里へと導くために残してくれた"や"。父の優しさ、思いやりと共に、孝一は胸の奥に刻みつけた。  孝一は久の風呂敷包みの中から、名前入りの上着を出し久の身体に着せた。どこの誰なのか熊谷の人に分かってもらいたかった。 半分消えた久の遺体は軽く、孝一は泣かずにはいられなかった。 「お父さん、今まで育てて頂きましてありがとうございました。浅見孝一、これより一人で逃げます。一緒に連れて帰りたいけれど、それは出来ません。どうか許して下さい」 孝一は溢れる涙を拭おうともせず、しっかりと大地に立ち、最上級の敬礼を久に向けた。
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