第1章 事件

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第1章 事件

 ジュリエーヴは、キャゼトリア連邦の西端に位置する地方都市だ。  銀行業や時計産業が盛んなだけでなく、大学や大劇場、美術館などが建ち並び、文化的にも栄えている。  自然豊かな土地で、隣国とは大きな湖で隔てられ、高く聳える山脈が空を大胆に切り取っていた。  それらの山々の麓には、広大な葡萄畑が広がっている。    湖の西側に位置するジュリエーヴ大学も、敷地の中には樹木や芝生が多く、緑に溢れていた。  大学の敷地内には、学舎と言うより貴族の邸宅めいた、優美な建造物が並んでいる。  張り出したポーチの上方には、宝石箱のように色彩溢れるステンドグラスで飾られた窓。  魔術学部棟の上部は黄褐色のレンガで、下部は灰色のそれで造られているのが特徴的だった。  そのジュリエーヴ大学の魔術学部で、ウェイルは招喚魔術学科の教授として教鞭を取っている。  『魔王招喚』の魔術を成功させた翌日は、朝から講義がある日で、ウェイルはいつもと同じように屋敷を出たものの、気もそぞろになりがちだった。  心はまだ昨夜の余韻を引き摺っていて、ともすれば風に攫われた花弁のように舞い上がってしまう。  まともに講義ができる気がせず、ウェイルはいっそ休講にしてしまおうかと思っていたが、本当に休講することになった。    学部長から、急な呼び出しを受けたのだ。    受け取った封筒の蜜蝋に魔術学部事務室の印璽がなかったことからして、学部長からの個人的な呼び出しのようだが、用件については特に記されていなかった。    一体何の用だろう。  学部長とは個人的に親しい訳でもないので、尚のこと用件が気になった。    魔術士の証である黒いローブを纏い、杖を携えて会議室に赴いたウェイルは、控えめなノックをしてからドアを開ける。  九月も半ばを過ぎて、窓から降り注ぐ日差しは夏の鋭さを失っていた。  流れ出してきた空気はひんやりとしているものの、首を竦める程ではない。  分子の運動を活発にすることで熱を生む『発熱』の魔術で、部屋を暖める必要はなさそうだった。  広々とした部屋の中央には、深紅の絨毯。  絨毯の上には、赤みがかった焦げ茶色の長いテーブルが置かれ、両側を肘掛け付きの椅子に囲まれている。  魔術学部の総勢三十名程の教授・助教授・講師達は、ウェイルを除いて全員揃っていた。  漆黒のローブを身に着けた教員達が並んで腰掛けている様は、そこだけ夜が留まり続けているかのようだ。  他の皆も同じように呼び出されているとは知らなかったため、ウェイルは少し驚く。    席に着いている教員の中には、ウェイルが懇意にしているクラッド・ラム・ソレイズもいた。  クラッドは、戦闘魔術学科の助教授だ。  ウェイルより四歳年上の三十二歳で、年嵩の者が多い魔術学部の教員の中ではかなりの若手だった。  夕日を帯びた荒波のような癖のある赤い短髪の間から、まだ真昼の青さを残した空を思わせる瞳が覗いている。  その精悍な面差しは、女性の関心を惹かずにはいられないだろうが、どこか掴みどころのなさを感じさせた。  だが、その瞳の青はいくらか翳っていて、どことなく消沈しているようだ。    ウェイルは少し気掛かりに思いながら静かにドアを閉めると、入室が遅くなったことを詫びる。  雑談に興じる声に時折笑みが混じる中、ウェイルは教員達に挨拶の言葉を投げ掛けたが、まともに挨拶を返す者はクラッドの他にはほとんどいなかった。  合計四年飛び級し、学生の時分から年若いことを理由に爪弾きにされてきたので、いちいち落ち込むこともなくなったが、それでもやはり愉快な気持ちにはなれない。  クラッドは「あいつらは君の才能を認められなくて妬んでいるだけだから、気にするな」と言ってくれるが。    ウェイルは杖をテーブルに立て掛けると、クラッドの隣の席に腰を落ち着けながら、クラッドに声を掛けた。 「おはよう。何だか元気がないみたいだけど、心配事?」 「ちょっとな。実は――」  クラッドは何か言いかけたが、長いテーブルの一番奥の席に腰を下ろした学部長が、眼鏡越しに書類に落としていた視線を上げたのを見て、口を噤んだ。  学部長は黒いローブのポケットから懐中時計を取り出すと、全員が揃ったことを確かめてから切り出す。 「時間だ。始めよう」  学部長は一旦言葉を切り、雑談していた教員達が静まるのを待ってから続けた。 「急に呼び立てて申し訳なかった。今日諸君に集まってもらったのは、他でもない。秋・冬学期が始まったばかりだが、早速学部内で問題が――より正確に言うなら、事件が発生した」  「事件」という不穏な響きが、ウェイルの胸をざわつかせた。  そのざわつきが伝播したかのように低い囁きが交わされる中、学部長は言葉を継ぎ足す。 「昨日、学生達に貸与する杖の盗難が発生したのだ」  大学内で盗難が発生すること自体はそう珍しくもない話ではあるが、杖の盗難となると話は別だ。  魔術は国によって使用者を把握され、厳しく管理されている。  知識のない者がただ杖を手にしたところで、魔術は発動しないが、魔術具が外部に流失したことはかなりの問題だった。 「盗難がどのような経緯で発生したのか、お聞かせ願えますか?」  学部長の近くに座る招喚魔術学科の教授がそう質問を口にすると、学部長は小さく頷いた。 「良かろう。昨日、ソレイズ先生に魔術学部事務室からの伝達を装った文書が届けられた。封筒には事務室が使っている封蝋の印璽によく似た物が使われていたこともあり、ソレイズ先生は『文書を持って来た学生に、任意の杖一本を渡すように』という文書の内容を信じて、文書を持って来た学生に杖を渡したそうだ。そして昨日最後の実習の終了後に、私が倉庫内の杖の本数を確認したところ、数が足りないことがわかり、杖の回収に関して事務室が関知していないことが明らかになった。こうして、事件が発覚したという次第だ」  ウェイルは、無言で眉間に皺を寄せた。  封蝋の印璽や文書の偽造までするとは、なかなか手の込んだ窃盗犯だ。  「文書を持って来た学生に、任意の杖一本を渡すように」とは妙な指示だが、魔術学部事務室とよく似た封蝋の印璽を見れば、きっと自分もクラッドと同じように杖を手渡したに違いない。  ウェイルがそう考えていると、学部長が言った。 「こんな失態は繰り返すべきではない。再発防止のため、今後何らかの文書を受け取った場合には、逐一差出人に対して確認を取るように」 「再発防止策はわかりましたが、杖の盗難に関しては、どう対処されるおつもりですか?」  クラッドの隣に座っていた医療魔術学科の講師が、学部長にそう尋ねた。  学部長は既に考えを纏めていたようで、考える素振りを見せるでもなく答える。 「内々で処理する。表沙汰にしたところで、犯人だけでなく我々まで不利益を被るだけだろう。幸い、この件はまだ外部には漏れていない。事務室には『少々手違いがあったが、杖は修理に出した』と説明してある。秘密裏に犯人から杖を取り戻すことができれば、何の問題もない筈だ。辻褄を合わせるために、杖の修理に関する予算を計上するための書類を用意する必要はあるが、それは私がどうにかしよう」  罪の隠蔽は決して褒められたことではないが、学部長の判断に従うことは、ウェイルとしても吝かではなかった。  この件が公になった場合、魔術学部やジュリエーヴ大学に対して、どのような処分が下るかわからない。  盗まれた杖があまりに酷い悪事に利用されるなら、流石に黙ってはいられないかも知れないが、今ならまだ多少の良心の呵責には目を瞑っていられた。  できることなら、誰も傷付かない内に、杖が無事に戻ってくれたらいい。  ウェイルがそう祈っていると、学部長はクラッドに冷ややかな眼差しを向けて続けた。 「この件は、ソレイズ先生に一任することにする。彼に手紙を渡した学生が、『別の学生に頼まれた』と証言しているところからして、ソレイズ先生は犯人と直接顔を合わせた訳ではないようだが、犯人と何かしらの接点があった故に狙われた可能性もあるだろう。彼が最も適任だ」  今回の失態に対する懲罰的な意味合いもあるのだろうが、どこにいるとも知れない犯人を、クラッド一人で探し出すのは、不可能に近いだろう。  杖を盗んだ犯人が魔術を使えば、手掛かりが得られる可能性はあるとはいえ、魔術士が魔術の発動を感知できるのは、ごく近しい範囲に限られる。  犯人がジュリエーヴを出てしまっていたら、犯人が魔術を使ったとしても、感知することなどとてもできなかった。  仮に感知できたところで、有形もしくは無形の魔術の痕跡から、誰が魔術を使ったかを特定する方法はないし、魔術を使った犯罪を解決するのは容易ではない。  だが、『魔術の基盤』たる魔王であれば可能かも知れなかった。    ウェイルは学部長に言う。 「ソレイズ先生一人の手には余るでしょう。私も共に対応に当たります」 「おい、君がそんなことをする必要は……!」  クラッドが泡を食った様子でそう言ったが、ウェイルはクラッドの言葉を遮って言った。 「大丈夫だから。手伝わせてくれ」 「だが」  クラッドが尚も何か言いかけた時、戦闘魔術学科の教授が皮肉げに唇をゆがめて言った。 「戦闘魔術学科の助教授如きのために、天才と名高い招喚魔術学科の教授自らが骨を折ろうとはな。ソレイズ先生は研究者としてだけでなく、人格面でもアンデュート先生には及ばないようだ」  クラッドが唇を引き結んで拳を握り込むと、ウェイルはテーブルの下でクラッドの手に己のそれをそっと重ねる。  触れたクラッドの手は、少し冷たかった。  長い付き合いなので、何も言わなくても、クラッドが相当腹を立てているのはわかる。  いくら短気なところがあるクラッドでも、この場で殴り掛かったりはしないだろうが、とにかく気持ちを落ち着けて欲しかった。  ウェイルがクラッドの手に温もりを与え続けていると、学部長は戦闘魔術学科の教授を一瞥して言う。 「その辺にしておきたまえ。事に当たるのは、誰でも何人でも一向に構わんだろう。ただ、事を無事に収めてくれさえすればな」  学部長は、教授からウェイル達に視線を流して続けた。 「事務室を誤魔化せるのは、せいぜい数ヶ月が限度だ。できる限り早急に、杖を取り戻すように」 「ご満足頂けるよう、尽力致します」  ウェイルがそう告げると、学部長は満足そうに小さく頷いてから、教員達を見回して言った。 「言うまでもないことだが、この件はくれぐれも他言無用だ。そして、彼等に助力を求められた際には、協力を惜しまないこと。以上だ」  学部長がそう言い捨てて立ち上がると、他の教員達も次々に席を立ち、ウェイルとクラッドも会議室を出た。
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