魔王招喚

1/1
13人が本棚に入れています
本棚に追加
/35ページ

魔王招喚

 ウェイルは目を閉じると、精神を集中させた。  ウェイルは、もうすぐ二十九歳になる青年だ。    今は瞼に覆われている穏やかな青の瞳に、金色の短髪が落ちかかる様は、見る者に日差しが大海に降り注ぐ光景を想起させるだろう。  思慮深さと誠実さを湛えた面差しは、宗教画の求道者めいていて、品良く整っている。  身に着けている茶色い上着、ベストに白いクラバット、茶色いズボン、革靴は、貴族らしくどれも仕立てのいい物ばかりだった。    指先まで整った両手で、天へ捧げるようにして持つのは、銀の片翼の意匠が施された杖。  その杖の先を、ウェイルは布で描いた招喚円にそっと触れさせる。 「……無制約に最も近き、超越的実在」  そう『鍵たる言葉』を口にしたウェイルは、瞼越しに招喚円が黒い光を放ったことを感じた。  招喚円が、魔王の領域と繋がったのだ。    その途端、芳醇なワインを思わせる深い赤のカーテンに覆われた窓や、石炭が燃える暖かい暖炉、寄せ木細工の床、よく見知ったそれら全てが、遠ざかったような感覚をウェイルは覚える。  己の肉体すらもどこか遠くに感じられたが、ウェイルは杖を持つ両手の感覚を頼りに、己を見失うことなく保ち続けた。    今から行使しようとしているのは、『魔王招喚』の魔術だ。  魔王とは人ならぬ魔族を統べる王にして、この世界の理から外れた存在。  魔族と人間は幾度も戦火を交えたことがあるが、魔王は自身の招喚に成功した者と契約を交わし、願いを叶えてくれるのだという。  魔王が何故敵である筈の人間と契約を交わすのか、その理由は誰も知らなかった。  その理由を知ることも、ウェイルが『魔王招喚』の魔術を行使しようとする動機の一つだ。  常識的に考えれば、人間と敵対する存在を呼び寄せるのは自殺行為としか言いようがなかったが、魔術の徒として己の力を試したいという欲求が恐怖に勝った。  『魔王招喚』は魔術の中で最も高等なそれとされていて、これまでに魔王を招喚できた者は数える程しかいないと言われているのだ。  ウェイルが『魔王招喚』の魔術に挑むのは、決してこれが初めてという訳ではなく、これまでに幾度も失敗していた。  そしてその失敗のおかげで、大分要領が掴めてきている。  ウェイルが更に集中を高めると、完全に音が消え、夜は厳かな静謐に満たされた。  招喚円の向こう側には、強大過ぎる力。    それは空より高くに広がる、星の海のように限りない力だ。  その力に本能的な恐怖を覚え、ウェイルの背筋がぞわりと震えた。  魔術を使う際には、一時的とはいえ魔王の領域と繋がりを持つことになるが、『魔王招喚』ともなると、その繋がりはより強固なものになる。  初めて体験した時には、とても耐えられずに術を中断してしまったものだが、ウェイルは腹に力を込めると、逃げ出すことなくその場に留まり続けた。  魔術は魔王の力の端末をこの世界に引き込み、その力を借り受けることで発動するもの。  招喚円を魔王の領域と繋げた後は、魔王の力の端末を起点に、魔王の主体ごとこちら側に引き込みさえすればいい。  招喚円を介して魔王の端末に触れたウェイルは、歯を食いしばりながら、心の中で己に強く言い聞かせる。  ただできると信じ、やり抜くことだけを考えればいい。  他の可能性は考えない。  必要がない!  ウェイルは杖を(よすが)のように握り締め、『鍵たる言葉』を叫んだ。 「純粋なる力と意志を本質とする者! 顕現せよ!」  これまでとは違う、明らかな手応え。    ウェイルは成功を確信すると同時に、招喚円から力の権化が現出したことを感じ取った。  気が緩んだ途端に襲って来た凄まじい疲労感に耐えながら、そっと目を開けると、招喚円の中に見知らぬ男が佇んでいる。  まだ二十代半ば程の、若い男だ。  高い知性を秘めた瞳と艶めく垂髪の、見たこともない程深く美しい黒が、肌の白さに際立つ。  紫水晶に彩られた銀細工と、飾り布を帯びた豪奢な長衣に見合う高貴さ。  ただそこにいるだけで、跪かずにいることが難しい程の威厳。  そして、黒曜石のように艶やかで、硬質な美しさを持つ男だった。  女性的な脆さを微塵も孕んでいない、男性的な美。  あまりに麗し過ぎて、背中の大きな蝙蝠のような羽がなくとも、一目で人間でないことがわかってしまい、ウェイルは男がひどく恐ろしく思えた。  だが、まるで魅入られたように目が離せない。  これが、魔王というものか。  ウェイルがただ魔王を見つめていると、魔王はその形良く整った唇をゆっくりと動かして、静寂を静かに壊した。 「……もう少し早く呼ばれるかと思ったが、思ったより時間が掛かったな」  低く落ち着いた、響きのいい声がガフィル語を紡いだ。  ウェイルは魔王の言葉で我に返ると、重い右足を慌てて引き、左手を胸に当てて、貴族式の礼をする。 「申し遅れました。(わたくし)はウェイル・ヴァスティア・アンデュートと申します。陛下におかれましては、変わらずのご壮健、恐悦至極に存じます。この度は、このような遠方の地までお運び頂き……」  ウェイルは緊張を覚えていたものの、気分がひどく高揚していて、話し出した途端に驚く程滑らかに舌が動くのを感じた。  尚も口上を続けようとしたものの、魔王の冷ややかな声に遮られる。 「挨拶はいい。願いは何だ?」  爬虫類のように細い瞳孔だけでなく、虹彩までも黒い魔王の瞳が、真っ向からウェイルを見据えた。  ウェイルはその揺らぐことなどなさそうな瞳を、まじろぎもせずに見つめ返すと、答えを口にする。 「陛下の知識や御力を、人々を助けるために使って頂きたいのです」 「その願いは、其方に直接何らかの利益をもたらすものではないと思うのだが、それが其方にとっての真なる願いなのか?」    魔王がわざわざこんな確認してくるのは、利己的な願いを口にする人間が多いからなのだろう。  そう、ウェイルは思った。  魔王にどれ程のことが可能なのかはわからないが、願いを叶えてもらえる機会を得た者が、我欲を満たそうとするのは想像に難くない。  だが、自分だけのために叶えたい願いが、自分にはなかった。  衣食住に不自由はしていないし、やり甲斐のある仕事にも就いている。  祖父母や母、二番目の兄を亡くしてはいたが、死者を蘇らせるような真似をするべきではないだろう。  再び得た命に限りがあるなら、いずれもう一度死を体験させることになる。  仮に永遠の命を与えられるとしても、皆がそれを望んでいるかはわからなかった。  だからこそ、「願いはない」。  そうでなければ、祖父の願いに背くことになってしまうだろう。  ウェイルは、決然と答えを口にした。 「人の助けになることが、私の願いです」 「いいだろう」  契約は成立した。  ウェイルが魔王との間に魔術的な繋がりが構築されたことを感知すると、魔王は言う。 「我は在るべき場所へと戻るが、用がある時には呼ぶがいい。この姿形は仮初のものに過ぎず、我は肉体に縛られない存在なのでな、距離の隔たりなど問題にはならないのだ」 「承知致しました。その、畏れながらお名前をお教え頂けると有難いのですが」  魔王に聞こえる状態で、「魔王」という蔑称で呼ぶのは気が引ける。  名前で呼ぶような間柄ではないことを、ウェイルは重々承知していたが、何と呼べばいいのか教えて欲しかった。  そんなウェイルの思いとは裏腹に、魔王は言う。 「生憎だが、我に名はない。其方が我を必要として呼べば、我には必ず聞こえるのだから、それで十分だろう」 「畏まりました」  結局何と言って魔王を呼べばいいのか、ウェイルにはわからないままだったが、それは後でゆっくり考えればいいだろう。 「ではな」  魔王はそう言い残すと、夢のように忽然と姿を消した。
/35ページ

最初のコメントを投稿しよう!