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あるところに、リトルリトルと呼ばれる小さな小さな王国がありました。
どれほど小さいのかといいますと、まずそこに住む人々は成人であっても背丈が私達人間の子供の爪ほどしかありません。
そんな小さな人たちが住んでいるのですから家は勿論、王国自体も大層小さく、国の広さは猫が7匹ほど集まり丸まった程度。
ぐるりと石の市壁に囲まれた円形状のその中で、数千人の人々が私達と変わらぬ生活をしていました。
ある日のことです。
干ばつに苦しむビッガーという王国の王宮庭園にそれは突然現れました。
見つけたのはその城に仕える庭師で、彼はそれを見つけると目を白黒させて叫びます。
「小人がいる!!!!」
家臣からその騒ぎを聞いたビッガー王国の王様は、半信半疑で庭園に足を運びました。
その後ろを、まだ舌ったらずが抜けないラウド王子がとことことついてきています。
「なんということか!」
王様はそれを見て驚きの声を上げました。
お妃様の一番のお気に入りである淡いピンクの薔薇が植えられていたはずの一角が、まるでオブジェか何かのような小人たちの王国に取って代わられていたのです。
「わあ!」
新しいおもちゃだと思ったのでしょう。
幼いラウド王子は歓声を上げてその王国目がけ走りだしましたが、残念ながら教育係に止められてしまいました。
「ラウド、これは模型ではないようだ」
王様は不満を露わにしているラウド王子の頭を撫で、赤茶色のひげがたっぷりと蓄えられた顎をさすりながら興味深そうに王国を覗き込みます。
ごつごつとした、小さいながらも頑丈そうな石造りの市壁に囲まれたその国は、中央に人間の膝丈ほどの高さの塔が建っていました。
その塔を中心にして放射線状に道がいくつも伸び、街を作っています。
あまりの小ささにいくら王様が目を凝らしても建物の細部までは見ることができません。
しかし、確かにその中で何か──恐らく小人たちでしょう──が細々と動いています。
耳をそばだてると喧騒のようなものも聞こえました。
「ふうむ」
王様がどうしたものかと考えていると、どこからか「もし! もし!」と呼ぶ声が聞こえました。
「む?」
その音は葉が擦れる音よりもずっと小さなものでしたが、確かにどこからか聞こえてきます。
王様はこの小さな王国のあちこちに目を走らせ、ようやく声の主を見つけました。
「ここ! ここです! 良かった、やっと気付いてもらえた!」
声の主は中央にそびえる塔の先端に造られた窓から顔を出し、両手を大きく振ったり飛び跳ねたりして、何とか王様に気付いてもらおうと必死なようでした。
「私に呼びかけていたのはお前か?」
膝を曲げ、中腰になって王様が話しかけると、その小人は更に声を張り上げて答えました。
「いかにも! 私はこのリトルリトルの王、リトル17世にございます! 見たところ、貴方はとても偉い御方のように見受けられますが、お名前を伺っても?」
息を切らし、精一杯叫んでも、リトル17世の声は蜂の羽音にも劣る小ささです。
「私はお前たちが今下敷きにしている国の王、ビッグ・グランドだ。私はなぜお前たちがここにいるのかを知る必要がある。返答次第では今すぐにでも私の足で踏みつぶしてやろう」
そう言って王様は凄みを利かせながらリトル17世の許へ顔を寄せました。
「ああ! それはご勘弁を! 我々に敵意はありません、決して! どうか私の話を聞いて下さいませんか!」
「良いだろう。だが……」
王様はそう言って、見渡しました。
「この体勢は些か堪える。場を整えさせよう」
それからすぐリトルリトル王国の隣に椅子とテーブルが持ち込まれました。
「では話してもらおうか」
砂糖とミルクがたっぷりと入った淹れたての紅茶を口にしながら王様が話を促すと、リトル17世はまるで役者のような素振りで話を始めました。
「私達の住むリトルリトル王国はご覧の通り小さい国です。多くの生き物は私達にとって大変な脅威で、安全な場所というのはとても少ないのです。今までは別の国で、他の生き物から脅かされることのない場所を提供していただき暮らしていました。しかしそこで不幸な出来事が起こり……その国を出て行くことになったのです」
リトル17世はここまでひと息に話し、少し息を整えました。
王様の後ろに控える従者はリトル17世に水を出してやりたいと思いましたが、彼の大きさに合うカップも器も揃えがありませんでした。
「不幸な出来事?」
王様が尋ねると、リトル17世は顔を曇らせました。
「王国の住人がその国の人間に踏み潰……あぁ、言葉にするのも恐ろしい。事故が起きたのです。謝罪はいただきましたし、熱心に引き留められたのですが、国民は納得しませんでした」
「事故、なぁ……」
王様は「その大きさでは潰されるのは仕方ないのでは?」と思いましたけれど、それは口にせず、黙っておくことにしました。
「王国の場所を移すのは人力ではなく、もちろん魔法を使うのですが、移動先がどこになるのかわからないという少々厄介なものなのです。今回は移った先がこの場所でした。私達は王国の外に出ることもなく、貴方がたに危害を加えるつもりも当然ありません。どうか、私達がここで暮らすことをお許し願いたい。もし許していただけるのであれば、相応の御礼は致します」
ぺこり、と頭を下げたリトル17世の小さな頭を見下ろしながら、王様は焼きたての、バニラの甘い香りがするクッキーを口に運びました。
「相応の礼、とは?」
その内容次第で返答が変わるであろうことは王様の試すような表情と声からリトル17世にもよくわかりました。
リトル17世は一層頭を深く下げ、おずおずと答えます。
「失礼ながら、ビッグ王。この国は今、日照りに悩んでおられるのでは?」
王様の眉がほんの少し動きました。
リトル17世の言う通りこの国ではもう1か月以上雨が降っておらず、国民は皆、飢えに喘いでいたのです。
「その通りだ。なぜわかった?」
「大地が教えてくれるのです。私達は土地の声を聴き、そして少しであれば天候や自然を操ることが出来ます。ここで暮らす許可を頂けるのであれば、すぐにでも雨を呼んでみせましょう」
「なんと。そんなことができるのか」
リトル17世は王様がクッキーを口に運ぶ手を止めたのを見て誇らしげに大きく頷きます。
「はい。雨を呼ぶだけではありません。人々を困らせる大嵐や竜巻はこの地を避け、痩せた大地が力を取り戻すと誓いましょう」
王様はしばしの間考える素振りを見せました。
本当は何と答えるか心の中ではとっくに決まっていたのですが、恩を着せるためにそれはいかにも難しいようなふりをしていたのです。
そして王様は、仕方ない、と呟きました(もちろんこれも王様の『困ったふり』です)。
「良いだろう。お前たちがこの庭園に居座ることを許す。だが忘れるでないぞ。もしもこの国が再び干ばつ、嵐、その他の災害に見舞われたその時は、すぐに出て行け。さもなければ私自らの足でこの国を踏みつぶしてやるからな」
リトル17世は王様の言葉に大変喜び、何度も何度も御礼を言いました。
「ありがとうございます! すぐに国の者達へ知らせなければ!」
急いで王国に戻ろうと机の上を駆け出したリトル17世でしたが、彼の足では国に着くころには日が暮れていることでしょう。
そこで、先ほど彼に水をあげたいと思っていた従者は彼にそっと手を差し伸べ、リトルリトルまで送り届けてあげました。
こうして、ビッガー王国の庭園に小さな人々が居候することとなったのです。
リトル17世の言った言葉に嘘はありませんでした。
彼らが王宮庭園で暮らし始めてから一年もするとビッガー王国は実り豊かな国に変わり、毎年悩まされていた秋の嵐もなぜかビッガー王国だけは避けて進むので、人々は安心して暮らすことができるようになりました。
そのおかしな現象に近隣諸国は「何か理由があるのでは?」と国同士の話し合いの場でそれとなく水を向けてみるのですが、ビッガー王国の王様もお役人も「ただ運が良いだけさ」と笑うだけで、期待するような答えは返ってはきませんでした。
さて、リトルリトルの王リトル17世には二人の息子と三人の娘、あわせて5人の子供がいましたが、その一番末の娘は名前をリリィといい、柔らかいウェーブのかかった金髪と母譲りのエメラルドの瞳が印象的な大変に愛らしい娘でした。
そして、彼女には最愛の婚約者がいました。
「リリィ、いるかい?」
きつく照り付ける夏の太陽が、まだその力を蓄えながら寝ぼけ眼で空に向かう朝早く。
ささやき声でリトルリトルの塔に向かって話しかける者がいます。
「はい、ここに! リリィはもうずっと前からここであなたを待っていましたわ!」
ぴょこん、と顔を出し窓辺に手をついた彼女が喜びいっぱいに飛び跳ねると、その動きにあわせて揺れる金色の髪が太陽の光を反射させて輝きます。
「リリィ! 会いたかったよ」
声をあげたのはビッガー王国の王子、ラウド。
そう、リトルリトルが王宮庭園に現れた時に王様の後ろをついてきていた、あの小さかったラウド王子です。
あれから五年の月日が経ち、ラウド王子は幼子から少年へと成長していました。
二人の婚約はビッガー王国とリトルリトルの関係を強固にする為結ばれたものでしたが、リリィもラウドもお互いを好いていましたので、こうして時間を作ってはゲームをしたり本を読んだりと交流を深めていました。
「今日はどんなお話をして下さるの? 早く私をあなたの許に連れて行って下さいな!」
両手を広げてせがむリリィに王子が手を差しだすと、リリィは行儀悪く窓から王子の手の平に飛び移りました。
「今日はね、ある魔女のお話だよ」
以前ビッグ王がリトル17世と協約を結んだ時に座っていた椅子に腰を掛けた王子が本の表紙をリリィに見せると、彼女は嬉しそうに手を叩きました。
「あら! まるで私のことだわ」
「うん? リリィ、君、魔法が使えるのかい?」
リリィが魔法を使えるというのは初耳でした。
驚く王子に、リリィはちょっぴり照れくさそうです。
「ええ! 私だけじゃないわ、リトルリトルに住む人はみんな使えるわよ」
「それはすごいね。じゃあ、今見せて、って言ったら何か見せてくれる?」
王子は期待に満ちた目をリリィに向けましたが、リリィは申し訳なさそうに「それはできないの」と答えました。
「とても決まりが厳しくて、勝手に使うことは禁じられているの」
「そうなんだ」
残念がる王子にリリィは何かしてあげたくなり、良いことを思いつきました。
「ごめんなさい、ラウド。でもその代わりにリトルリトルの秘密を教えてあげるわ。特別にね。だからそんなにがっかりした顔をなさらないで」
「秘密……?」
リリィは小さく頷くと、自身を王子の耳元まで運ばせてその耳にこしょこしょと囁きました。
ラウド王子はリリィの声と息がこそばゆく、時折肩をよじりながらその秘密の話を聞き終えると
「そんなこと、僕に教えて良かったのかい?」
と今度は心配そうにリリィに尋ねます。
「本当は誰にも話してはいけないの。でも、ラウドだから特別よ。これは、私達だけの秘密にしてね」
リリィは右手の人差し指をそっと自分の口元へやって、王子の目を見つめてウインクをしました。
王子はそれに「勿論だよ」と真剣な顔で頷くと、気を取り直すように持っていた本をトントン、と叩きました。
「じゃあ、本を読もう。この本に出てくる魔女は、リリィと違って悪い魔女だけどね。昔昔、あるところに──」
熱心に耳を傾けるリリィが座っているのは、王様たちが話し合いをしたあの時にはなかった、リトルリトルの人々の大きさに合わせて作られた椅子です。
「──今日のお話はこれでおしまいだよ」
物語を読み終え、よく冷やされた紅茶を飲みながら先ほど読んだ本について語り合っていた最中にふと、リリィが不安そうな声をあげました。
「ねえ、ラウド。将来、私はあなたにふさわしいレディになれるかしら」
「当然じゃないか」
「でも私、こんなに小さいわ」
そう言って自分の頭に右手の平を乗せる仕草をしてみせるリリィ。
リリィの言う通り彼女の背丈は一粒のぶどうよりも小さいので、そう思うのも当然のことでした。
「大きさなんて関係ないよ。僕はリリィが大好きだし、父上だって問題ないと思ったから僕達は婚約したんだよ。クウェートもそう思うだろう?」
「ラウド様の仰る通りです」
王子の付き人のクウェートが、二人のお茶のお代わりを準備しながら答えました。
クウェートは王子より三つばかり年上で、本来であれば騎士見習いとして働くはずでしたが、彼の従者としての資質を見込んだ王様がクウェートを王子の世話役に命じたのです。
「リリィ様はこの世界で最も愛らしいお妃様になられることでしょう」
その日が待ち遠しいですね、とクウェートがにっこり笑いかけると、リリィはもじもじと気恥ずかしそうにその小さい背中を丸め、それから「ええ」と顔を赤らめながら返事をしました。
しかし、その日がやってくることはなかったのです。
それから更に六年の月日が流れました。
ラウド王子は立派な青年へと成長し、勉強に鍛錬に外交にと忙しい日々を送っていました。
昔のように王子に会えなくなったリリィはとても寂しい想いをしていましたが、王子にはそんなことに構っている暇もなかったのです。
そして事件は起こりました。
ラウド王子が、山を一つ越えた先にあるミドル国という小さな国を訪問した時のこと。
王子はその国のお姫様に恋をしてしまったのです。
「僕は君ほどの美しい金色の髪を見たことがない。そのサファイアの瞳も、愛らしい笑い声も、すべてが僕の理想だ。どうか僕と結婚してくれ」
求婚を受けたのはミドル国王の一人娘、ミディア。
彼女は世にも美しい姫でした。
顔の造形から頭の形、肌、声に仕草、どれをとっても完璧で、非の打ち所がない彼女に求婚を申し込む男は後を立たず、ラウド王子の熱烈なアプローチも姫にとっては日常の一部。
王子はあっさりと振られてしまいました。
けれど、ラウド王子は諦めきれず、ビッガー王国に戻ってからも毎日手紙や花を送り続けました。
王子からのしつこい好意にうんざりした姫はそれまで無視していた手紙にこう返事を送ったのです。
『私が今まで見たことのない、驚くものを見せて下さい。もし私の心が動いたならば結婚を考えましょう。但し、それが叶わなければもう二度と私に関わりませぬよう』
さて困りました。
王子は五日六晩考えに考え、それでもまだ「これだ!」というようなものを思いつくことができません。
「どうすれば姫の心を動かすことができるだろうか」
うーん、と唸り声を上げるのは一体何度目でしょうか。
「おい、クウェート。何か良い案は思いついたか?」
「いいえ。私のような者にはとても……」
従者のクウェートがそう答えると、王子はわざとらしく溜息をついて不満を露わにします。
クウェートは王子に背を向けて悲しげに目を伏せてから、気を取り直してお茶を入れ始めました。
彼が悲しかったのはラウド王子に溜息をつかれたからではありません。
クウェートはリリィの事を思うと彼女があまりに可哀想で、何だか自分まで胸を針で刺されたように苦しくなってしまい、とても王子に助言などできませんでした。
だってリリィはまだ何も知らないのです。
王子が他の姫に夢中になっていることも、その上、二人の婚約を破棄しようと王様にお願いしていることも。
「ラウド様。たまにはリリィ様を訪問するようリトルリトルの者より言付けを預かっておりますが」
クウェートは王子に会えず落ち込んでいるリリィを励まそうと、深夜に美味しいお菓子や果物を運ぶのがここ最近の日課となっていました。
王子が他所の姫に夢中になっていることは城中で噂になっていましたので、リリィに持っていくのだと聞けば使用人の誰もが、可哀想なリリィの為に普段の何倍も張り切って彼女への贈り物を用意してくれました。
もちろん、そのことは王子には秘密です。
恋がうまくいかないせいか近頃の王子は気性が荒く、ちょっとしたことでもすぐに怒り、誰かに八つ当たりをすることも少なくありませんでした。
もしリリィに同情しているなどと聞けば、全員解雇しろと騒ぎ出すかもしれません。
そうなっては大変です。
「リリィだと? クウェート、もうあの娘の話をするのは金輪際やめろ。まったく、父上も早くあれとの婚約破棄を了承して下されば良いものを。あんな虫のような……いや、待てよ。うん、良い事を思いついたぞ!」
いつになく嬉しそうな様子の王子に、クウェートは嫌な予感を募らせながら尋ねます。
「如何致しましたか?」
「リリィだ! リリィをミディア姫にお見せするのだ! 姫は小さくて繊細なものがお好きだと聞いている。きっとリリィを気に入るに違いない! 私としたことが、どうして早く気付かなかったのだろう」
興奮した面持ちでそう語る王子。
クウェートは王子の思いつきに驚いて言葉もありません。心の底から王子を軽蔑しました。
けれど、クウェートの立場で王子を非難するなど命を捨てるのも同然です。
クウェートは王子を咎める言葉を口にしたいのをぐっとこらえて止めましたが、王子はそんな彼の様子に何を勘違いしたのか「名案だろう!」と胸を張りました。
「リリィ様にはなんとご説明を?」
「ふむ。自分が婚約者だなどと下手なことを言われても困るからな……」
「それに、リトルリトルの者達の存在を外に漏らしてはなりません。王にお話を……」
「ああ、そうだったな。リリィを連れ出すこと自体は簡単だろうが……その際、外出することを父上に話せば止められてしまうのでこれは私達だけの秘密であること、そして外では自分が『根無し草の小人である』と話すよう教えよう。どうだ? これならあいつも自分が婚約者だなどとふざけたことを姫の前で言いふらすことはないだろう」
王子の考えには色々な問題があるように思えましたが、きっと王子は私の言葉に耳を傾けてなどくれまい、とクウェートは口をつぐみました。
そして王子は話したとおり、リリィをうまいことミドル国へ連れ出したのです。
久しぶりの王子との逢瀬、しかもそれが初めての国外旅行とあって、リリィのはしゃぎ様は大変なものでしたが、王子の企みを知っているクウェートはそんなリリィの姿を見て喜ぶことなどできません。
「御機嫌よう、ラウド様。手紙を拝見致しましたが、一体私に何を見せて頂けるのかしら?」
王子の前に現れたミディア姫は今日もその美しさに一点の翳りがなく、謁見の間は彼女の放つ煌びやかな威圧感で支配されていました。
「麗しきミディア姫。また貴女にこうしてお目にかかることが出来て光栄です。今日はきっと姫がお喜びになるものを持って参りました。どうかあの手紙の約束、お忘れなきよう」
「ええ、勿論よ。けれど、そちらもお忘れではありませんね? 機会は一度のみ、これきりよ」
「はい、よく存じております。では早速ご覧いただきましょう。クウェート!」
後ろに控えていたクウェートが王子の許へ歩み出ました。
手には黒い布の掛けられた小さな籠。
王子は、クウェートが細心の注意を払いながら持ってきたそれを特に気にする様子もなく粗雑な態度で受け取ります。
「きゃあっ!」
すると、布の中から小さな悲鳴がひとつ。
その声はいつものとおりとても小さいものでしたが、静けさに包まれた謁見の間に思いのほか響きました。
「何の音?」
ミディア姫が怪訝な顔を浮かべ、王子の手にしている籠へ疑い深い視線を投げつけます。
「ああ、姫。どうかそのような顔をなさらないで下さい。中の者が怯えてしまいます。決して貴女を傷つけるような真似は致しません」
王子は慌てて取り繕うと焦った様子で籠に被せられた布を外し、その籠をミディア姫のほうへ掲げてみせました。
「……?」
ミディア姫は首を傾げました。
ラウド王子が姫に見せたのは楡の木の枝で編まれた四角い籠でした。
中には白い布が敷かれ、子供が遊びに使うおもちゃの何倍も小さな机と椅子、そしてその椅子には人形が置かれています。
姫は「こんな人形で私が喜ぶとでも思ったのかしら」と苛立ちに近いものを感じながらそれを眺めていましたが、やがて驚きの声を上げました。
椅子に座っていた人形が勝手に動き出したのです。
「それは何? 機械人形?」
ミディア姫はこんなに小さな機械人形は見たことがありませんでした。
思わず椅子から立ち上がり、サファイアに輝く瞳をぱちぱちと瞬かせて籠の中を熱心に見つめます。
「いいえ、ミディア姫。これは人形ではございません」
王子はミディア姫の瞳のきらめきに鼓動を高鳴らせながら答えました。
「さあリリィ。ご挨拶を」
「はい」
王子がそう促すと、またどこからか先ほどの小さな声が聞こえました。
姫は「まさか」と大きな目を更に大きく見開きます。
「初めまして、ミディア様。リリィと申します」
リリィは自身をただ「リリィ」とだけ名乗ると、美しく上品なお辞儀をしてみせました。
リリィだってリトルリトルのお姫様なのですから、この程度の振る舞いはお手の物です。
「なんて可愛いのかしら!」
幼子のようにはしゃぐミディア姫を見て、王子はしめた、と思いました。
「姫。それは人形ではなく正真正銘本物の『小人』にございます。思考も扱う言語も我々と何ら変わりありません。どうぞ籠から出してお確かめ下さい」
「危険はないのね?」
「それは勿論。ご覧頂いている通りの、小さな愛らしい娘です」
そう言って王子がずいと籠をミディア姫に差し出すと、姫はそれに手を伸ばしました。
周りにいたお付きの者達に一瞬緊張が走りましたが、ミディア姫が「大丈夫よ」と一声かけると彼らは警戒を緩めました。
姫が珊瑚色に塗られた形良い爪で籠の鍵を外すと、ギ、とわずかに軋む音を立てて扉が開きます。
そしてリリィが扉の入口までやってきたのを見たミディア姫は、籠を王子に返しました。
「?」
もしや姫のお気に召さなかったのか?
王子はにわかに青ざめましたが、そうではありませんでした。
「御機嫌よう、リリィ嬢。私はミドル国第一王女、ミディア・ミドル。貴女に会えてとても嬉しく思うわ」
ミディア姫はそう挨拶をすると先ほどのリリィに負けずとも劣らないお辞儀をして、籠の中にいたリリィを自身の手に招きました。
「今しがたの非礼をお詫び致します」
ミディア姫は謝罪の言葉を口にしてから、両手で優しく包み込むようにしてリリィを運びます。
ミディア姫は彼女の気持ちなど気にも留めずに求婚してくる男達に対しては冷たくあしらうばかりでしたが、他の者には等しく優しい、礼儀正しいお姫様でした。
「私、小人にお会いするのは初めてなの。もし貴女さえ良ければ、色々お話したいわ」
その後、リリィはミディア姫にたくさんの事を話しました。
勿論、王子が話してはいけないと言ったこと以外です。
二人が話をしている間王子は傍でお茶を飲みながらリリィがうっかり余計な事を話さないか注意深く聞き耳を立てていましたが、その心配は杞憂でした。
二人が話を初めてから1時間ほどたった頃でしょうか。
謁見室の扉に並んでいた家来の一人が鈴を鳴らしました。
それはミディア姫に次の予定が迫っていると知らせる為のものでした。
「リリィ。今日はとても楽しかったわ。そんな小さな体でずっと喋り続けて、さぞ疲れたことでしょう。御礼に何か差し上げたいのだけれど……」
「いいえ、「とんでもない! そんなことよりも、姫!」
恭しく辞退しようとしたリリィの言葉を、彼女の何倍も大きな王子の声がかき消しました。
「そのご様子だと、求婚の件は考えて頂けると取ってよろしいでしょうか?」
「ええ。今夜国王陛下にお話しするわ」
ミディア姫の返答に、王子は身を震わせました。
「……求婚?」
リリィは何のことかわからず目をぱちくりさせながら呟きます。
彼女の小さな声は誰の耳にも届きません。
「リリィ様、こちらに」
クウェートは不安げに佇んでいたリリィの許へ行くと、いつも以上に優しい声で彼女に声を掛けました。
「クウェート、あなた、何か知っていて?」
籠に戻りながらリリィが尋ねます。
クウェートは何と答えるべきか迷いました。
ちらりと王子のほうへ目をやると、彼は頬を紅潮させてミディア姫に必死で話しかけています。
まるで気品の感じられない自分の主の姿に、クウェートは肩を落としました。
そしてその夜、クウェートはリリィに全てを話したのです。
事の顛末を聞いたリトル17世は激怒し、ビッグ王に謁見を求めましたが、いつまで経っても返事はありませんでした。
ミドル国での出来事から一ヶ月が過ぎた、ある日のこと。
いつものようにクウェートがリリィの為にお菓子を持っていくと、塔の窓には普段受け取りに来るメイドではなく、リトル17世が待っていました。
その日のお菓子は甘酸っぱいヤマモモのジャムを乗せたパイ。
おひとつどうぞ、とクウェートが薦めるとリトル17世は「ありがとう」と礼を言ってから「少し話をしたいのですが」と続けました。
空にはまもなく満月を迎える大きな月が昇っています。
ランタンも要らないほどに明るい夜空の下、最近ではめっきり使われる機会の減った小さな椅子に座るリトル17世と、その隣に立つクウェートが話を始めました。
「可哀想に、リリィはあれから泣いてばかりで、食事もお茶も一向に喉を通らないようなのです」
そのことはクウェートもメイドから聞いていました。
クウェートには、主の非礼を詫びる以外口に出来る言葉が見つかりません。
「申し訳ありません」
「私も前々から懸念してはいたのです。私達と貴方がたではあまりに体格の差がありすぎますからね。もちろん、その点については考えがあったのですが……こうなってしまっては今更リリィの身体を大きくしたところでどうにもならないでしょう」
「そんなことができるのですか?」
リリィを人間の大きさにすることができるのなら、今とは違った結末を迎えていたかもしれないのに。
どうしてリリィを大きくしてやらなかったのかクウェートは疑問に感じましたが、リトル17世が聡明な王だということは知っていましたから、そこにはきっと理由があるのだろう、とも思いました。
「もっと早くリリィが人間の大きさになっていれば、こんなことにはならなかったかもしれないのに。そうお思いなのでしょう」
リトル17世にはクウェートの考えなどお見通しのようでした。
「身体の大きさを変える魔法を使えるのは一度きり。二度と元の大きさに戻すことは出来ないのです」
それからリトル17世はクウェートの顔をじっと見つめて自虐的な笑みを浮かべました。
「ただ、仮にリリィが人間の背丈になったとしてもラウド様はきっと今と同じようにあの子を悲しませたに違いありません。性根というものは、変わりませんから」
「……。そう、ですね」
同調したクウェートを見て、リトル17世が「おや」と意外そうな声を上げました。
「良いのですか? あなたの主を貶めたというのに」
クウェートは眉を下げ、泣きだすのを我慢しているような顔で答えます。
「私はもう随分と前からあの方に仕えるのを辞めたいと思っているのです」
クウェートは王子の横暴さにほとほと参っていました。
最近の王子の気性の荒さといったらなく、ミディア姫がなぜこの王子との結婚を承諾したのかクウェートには小人の爪の欠片ほどだって理解できませんでした。
「あなたも苦労されているようだ」
リトル17世はそんなクウェートに慰めの言葉をかけ、持ったままだったパイにようやく口をつけます。
そのパイはリトル17世が齧るとサクリと軽い音を立てて崩れました。
「うん、美味しいな」
服にパイが零れるのも気にしない様子で食べ進めるリトル17世の姿はなんだか子供のようです。
「お口にあったのなら何よりです」
「これまで運んできて下さったものも、本当はラウド様の言いつけではないのでしょう?」
口元についたパイの欠片を拭いながら、リトル17世がなんでもないように言いました。
実は、これまでクウェートは「王子からの贈り物」と言ってリリィにそれらを運んできていました。
リリィは毎日贈り物が届くお陰で「自分の事を大切に想ってくれている」と信じていたはず。
今までの事が全部嘘だったとリリィが知ればもっと悲しむに違いありません。
「リリィはあなたのことを責めたりなんてしませんよ」
リトル17世がおもむろに立ち上がり、身体についたパイくずを払い始めます。
「あの子は聡い子です。きっと、ずっと前からあなたの嘘に気付いていたと思います」
「えっ……」
「さて、そろそろ就寝時間だ。申し訳ないがあの城まで送っていただいてもよろしいかな?」
「あ、ああ、はい。勿論です」
動揺するクウェートに、リトル17世は更にこんなことを言いました。
「先ほど話した魔法のことですが……大きさを変えられる相手は、何も私達に限ったことではないのですよ」
クウェートにはその言葉に含まれた意味がわかりません。
「それはどういう……」
しかしリトル17世はクウェートの問いには答えてはくれませんでした。
「リトルリトルはとても良い所ですよ。今度遊びに来ると良い。では、美味しいパイをありがとう。おやすみ、クウェート」
リトル17世はそう言ってあっという間に姿を消してしまいました。
リトルリトルの王国に灯る小さな家々の明かりはまるで星のように美しく、クウェートは様々な想いを抱えながらしばらくそれを眺め続けました。
さてその翌日、意外なことが起こりました。
「リリィ様の許へ、ですか?」
なんとあれだけ知らんぷりを続けていたラウド王子がリリィに会いたいと言い出したのです。
一体どういう風の吹きまわしかとクウェートは驚きました。
「何を意外そうな顔をしている。あれはまだ私の婚約者なのだから、何も問題はないだろう?」
そう言って薄ら笑いを浮かべる王子。
間違いなく何か酷い──リリィが傷つくようなことをしでかすに違いありません。
「承知しました。すぐにお茶の支度を……」
「ああ、茶も菓子もとびきり良いものを用意しろ」
「すぐに」
頭を下げるクウェートの横を、王子がさっと通り抜けていきます。
心なしかいつもより軽い足取りの王子の後をクウェートは陰鬱な気持ちで見やると、すぐにお茶とお菓子を用意して庭園に急ぎました。
「やあ! 調子はどうかな、小さい諸君。リリィに会いたいのだけれど誰か呼んできてくれるかい? 今、すぐに!」
ラウド王子が無遠慮に大声でまくし立てています。
あれだけの大声、きっと小さな人達にとっては耳を塞ぎたくなるほどの騒音でしょう。
「クウェート。リリィが出てきたらここへ連れてこい」
王子はそう言い放つと、椅子にどかりと座りました。
それから少し、けれど王子が苛立って足を踏み鳴らし始めた頃、リリィは現れました。
「クウェート」
「お久しぶりにございます、リリィ様」
久しぶりに会った彼女は髪にも肌にもいつものツヤがなく、随分とやつれたようでした。
クウェートはどのような態度でリリィに接すれば良いのかわからず、挨拶だけ交わすと無言のまま王子のもとへ彼女を運びます。
王子は一体彼女に何を話すのだろうかとクウェートは不安で仕方ありません。
そっとリリィのほうを盗み見ると、彼女もまた緊張しているようでした。
「リリィ! 会いたかったよ!」
リリィを見た王子は、まるで幼い頃のように嬉しそうな表情を見せました。
何事もなかったかのように話しかける王子の姿に、クウェートはぞっとします。
「クウェートから聞いたよ、何か誤解があったようだね。僕は君以外の人と結婚などするつもりはないと、今日はそう伝えに来たんだ」
「誤解……?」
「そうとも! 僕の婚約者はリリィ、君以外には考えられないよ。なかなか会う時間が取れなくてすまなかったね。でも僕はいつも君の事を想っていたんだ」
王子が笑うと、リリィの緊張が僅かに溶けたようでした。
「……本当に?」
「本当さ!」
その日を境に、ラウド王子は時間を見つけてはリリィのもとを訪れるようになりました。
初めは表情の硬かったリリィも徐々に以前のような明るさを取り戻し、まるで昔の二人に戻ったかのようでした。
声を荒げてばかりだったラウド王子が嘘のように穏やかにリリィに語り掛け、それにリリィが応えます。
柔らかな日差しに土と草の香りを乗せた風が心地よく吹き付け、空には二人の楽しそうな笑い声が響きました。
そんな光景が見られるようになって数ヵ月が経った頃。
ラウド王子がいつものように微笑みながらリリィに話かけました。
「君に聞きたいことがあるんだ」
「私に?」
「そう。覚えているかな。いつだったか、君が魔法を使えるという話をしたことがあったろう? その時、ある秘密について話してくれたことがあったと思うのだけど」
あっ、とリリィが声を漏らしました。
「──何? ミドル国の姫と結婚を?」
ラウド王子はミドル国から戻るとすぐさまビッグ王にミディア姫との結婚のことを話しました。
「良いだろう。あの国とは今後領土を拡大するために協力関係を結びたいと思っていたところだ。だが小人共がなんと言うか。馬鹿正直に婚約を解消するといえば、この国を出ていくなどと言いかねん。今や、あやつらの力はこの国になくてはならない資源の一部。どうすれば機嫌を損ねずに婚約を取り消すことができるか……」
「父上。私に良い考えがあります」
「申してみよ」
「はい────」
「リトル・ワンドを見せてほしいんだ」
不自然なまでににこにこと笑うラウド王子。
けれど、リリィは真剣な眼差しでそれを突っぱねました。
「それは、できないわ」
断られると思っていなかったのか、リリィの返答に王子の口元が笑顔を作ったままぴくりと引きつりました。
「なぜ?」
「ラウド。あれはこの国の要なの。リトル・ワンドがなければリトルリトルの者は魔法を使うことができない。とても大切なものだと、昔話したでしょう?」
「そこを何とか、頼むよ。僕達は婚約者じゃないか。そうだ。もし見せてくれたら、その後すぐに結婚式を挙げたって良い」
「えっ」
ラウド王子は、リリィの心が揺れたのを見逃しませんでした。
そしてそのままうまいこと丸め込み、リリィを説得することに成功してしまったのです。
「じゃあ今夜、会いに行くよ。誰にも見つからないようにね」
「ええ。勿論よ。もし誰かに知られるようなことがあったら、私がこの国を追い出されてしまいかねないのだもの」
そうしてリリィは彼女の小さな体が抱えるには大きすぎる秘密を持って、城へと戻って行きました。
「ラウド様。先ほどから口にされている、リトル・ワンダ、とは一体何なのですか?」
普段ならクウェートの問いなど一蹴する王子でしたが、今の王子はどうやら機嫌が良いようで、その問いにあっさりと答えます。
「ああ、なんでも魔力を持った石らしい。それが無ければ小人共は魔法が使えない、逆に言えばそれさえあれば誰でも魔法が使い放題なのだと子供の頃リリィから聞いたことがあってな。この国にも魔法を扱う者はいるのだ、そいつらにそのリトル・ワンダとやらを与えてリトルリトルの者達の代わりをさせればいい。そうすれば小人共はもう用済み、どこへなりと行ってしまえば……いや、石がなければどこにも行けないのか? まあどうでもいいことだ。騒ぐようなら踏みつぶしてしまえばいいだけさ」
「……! それは、王はご存じなのですか?」
「当然だとも」
それから王子は、この数ヵ月リリィに優しく接していたのは全てこの為だったのだと言って笑いました。
クウェートは王子の非道な行いに絶句し、もうこの主の許では働けない、と思いました。
「…………」
無言になったクウェートに、ラウド王子が釘を刺します。
「クウェート。まさかとは思うが、これを誰かに話すようなことがあれば……」
「とんでもないことでございます」
クウェートの返答にラウド王子は一瞥してふん、と鼻を鳴らすばかりでした。
それからあっという間に夜がやってきました。
今日の空は雲が多く、月は見えません。
代わりに、庭園へ向かうラウド王子の持つランタンがゆらゆらと揺れています。
リリィはいつもの場所で王子を待っていました。
「待たせたね」
「……いいえ。大丈夫よ」
「それで、リトル・ワンドはどこに?」
ラウド王子はリリィの周りを見渡しましたが、それらしきものは見当たりません。
「あれはとても大きくて、私一人ではとても運ぶことができないの。場所を教えるわ、私を運んでくれる?」
「ああ、勿論だとも」
リリィはいつものように王子の手に飛び乗ると、ある一箇所を指差しました。
「あそこよ。あの塔」
リリィが示したのは西の端にある円筒状の塔でした。
普段リリィ達が顔を覗かせる塔は屋根の上の尖った尖塔でしたが、その塔はてっぺんが平になっています。
「あの中に?」
「そう。あの屋根を外すのよ。毎月月の光を浴びせるから、屋根の外し方は知っているわ」
塔に降りたリリィは、屋上の一角に設けられている足場に立つと両手を広げてぶつぶつと何か呟きました。
すると、間もなくして石で造られたその塔がガタガタと揺れ始め、形を変化させ始めたのです。
塔の中から現れたのは人間の大人の握りこぶし程の石でした。
青緑のそれは内側から発光してぼんやりと光っています。
その光に照らされたリリィはまるで妖精のようでした。
「これがリトル・ワンドよ。あっ、何をするの、ラウド!」
リリィが制止する間もなく、ラウド王子はその石に手を伸ばしてあっさりと自分の手の中に収めてしまいました。
「だめよ、ラウド! それを戻して!!」
塔の上でリリィが必死に叫びますが、王子は聞く耳を持ちません。
リリィのほうを見向きもせず、踵を返してその場を去ろうとする王子に、一部始終を見ていたクウェートは一体どうするべきなのか迷っていました。
「ラウド! ラウドったら!」
耳に入るリリィの声が、いつもよりずっと大きく聞こえます。
「……、ラウド!! ……っ」
悲痛な叫びにクウェートは思わずリリィのほうを振り返りました。
彼女の表情をはっきりと読み取ることはできませんでしたが、リリィと目が合ったような気がしました。
「……っ」
クウェートは奥歯を強く噛み、覚悟を決めました。
王子に歯向かえばどうなるかはわかっていましたが、あんな風に泣いているリリィを放ってなどいられなかったのです。
「ラウド様、おやめ下さい!」
クウェートの声が夜の庭園に響きます。
彼の声を聞いた王子はぴたりと足を止め、それからゆっくりと振り向きました。
「……クウェート」
怒りを押し殺したその声に、クウェートは一瞬たじろぎました。
でももう後戻りはできません。
「今、僕に指図をしたのか? その意味がわかっているんだろうな?」
「勿論理解しております。ラウド様、そのようなことはお止め下さい」
ラウド王子は無言のまま右手を高く上げ、パチン、と指を鳴らしました。
「……? ラウド様、一体、っ、」
音が鳴ったのとほぼ同時に、何かがクウェートの身体にぶつかりました。
ぶつかったと感じたのは一瞬で、それからすぐクウェートは自分の腹にするどい痛みと、身体から熱い液体が流れ出すのを感じたのです。
「……っ!」
それが自分の血だということはすぐにわかりました。
王子はクウェートが自分を裏切ることを予想していたのでしょう。
一方のクウェートは、王子が間者を側に置いていたなんてまるで知りませんでした。
「殿下。これはいかが致しましょう」
間者が、痛みにもがきながら伏せっているクウェートの処分について尋ねると王子は少し考え込んで言いました。
「放っておけ。どうせすぐに死ぬのだろう? 小人共にも丁度いい見せしめになるだろうよ」
しかしその翌日、庭園にクウェートの姿はありませんでした。
それどころか、リトルリトルの国までもが、丸ごときれいに消えていたのです。
「……ん?」
誰かの話し声に、クウェートは目を覚ましました。
「……! …………!!」
慌ただしく人が動いている気配を感じましたが、頭がぼんやりとして何が起きているのかわかりません。
「クウェート! 目が覚めたのね!」
一体何が起きたのだったか、頭を必死で巡らせていると誰かが駆け寄ってきました。
「……リリィ様?」
目に涙を浮かべながらこちらを見つめるリリィを見て、クウェートは自分でも気付かないまま微笑みを浮かべていました。
そして、それからすぐに何かがおかしいことに気付きます。
「………………あれ?」
今目の前にいるリリィはまるで自分と同じ人間の大きさに見えるのです。
「リリィ様、お身体が……」
クウェートが言いかけると、リリィは何かを察したようでした。
「その話はまた後で。すぐお医者様がいらっしゃるから、それまでもう少し休んでいて」
リリィはそう言って鼻を少しすすると、部屋を出ていきました。
どうやらここはビッガー王国の城内ではないようでした。
それなら、ここは一体どこなのだろう。
クウェートが起き上がろうと腹に力を入れると身体に鋭い痛みが走りました。
その痛みで、クウェートはあの夜の出来事を思い出したのです。
とその時、ドアから声が掛かりました。
「まだ起き上がってはなりません」
後ろに二人の女中を従えて入ってきた老人は、出で立ちから見て医者のようでした。
「酷い傷でしたのでね。傷口が開いてしまっては大変大変」
老人はそう言いながらクウェートに特に断りを入れることなく衣服をめくり、腹に巻き付けられた包帯に手を掛けます。
「よしよし。順調順調」
「それは何よりだ」
老人とは別の、男性の声。
クウェートはその声に聞き覚えがありました。
「陛下!」
若いようにも年を取っているようにも見えるその人は真っ白なシャツに麻のパンツという軽装で、とても「陛下」と呼ばれるような恰好ではありませんでしたが、部屋にいた誰もが一斉に頭を下げ、彼に敬意を示しています。
「ご機嫌よう、クウェート。気分はいかがかな?」
「悪くはありません、けれど、一体何がどうなったのか……」
「うん、気になるのも仕方のないことだな。クリュイル殿、少し彼と話をしても?」
クリュイルと呼ばれた老人は「あまり長時間はいけませんよ」と告げると、手早く包帯を巻きなおして女中達と共に引き上げていきました。
「さて、まず何から話すべきかな」
ベッドの側に置かれた木製の椅子に腰を掛け、困ったように笑う男にクウェートが呼びかけます。
「リトル17世」
そう、椅子に座っている男はあのリトル17世でした。
彼もリリィと同じようにクウェートとそう背丈が変わらないようです。
「私は、貴方がたに助けられたのですね」
「ええ。しかし、助けるには貴方を我々と同じ大きさにする以外方法がなかったのです」
それからリトル17世はリトルリトルが別の国へ移ったことや、リリィが毎日見舞いに来ていたことを教えてくれました。
「まだ魔法が使えるのですか?」
クウェートは、ラウド王子が「石がなければ魔法を使えない」と言っていたことを思い出しました。
「ええ。あれは偽物でしたから」
あっさりと返され、クウェートは目を丸くしました。
クウェートから見たリトルリトルの人々は素直で従順といった印象が強く、人を騙すというのは意外でした。
「前に言ったでしょう、リリィは聡い子だと。あの子はラウド王子が何か企んでいることに気付いていたのですよ。しかし命懸けであれを取り戻そうとしてくれた貴方には悪い事をしてしまった」
「いえ、それは私が自分で選んだことですから。ですが、リリィ様は……」
ラウド様と昔のようにお話をされていたあの時、リリィはどんな気持ちで笑っていたのでしょう。
クウェートは胸がしくしくと痛むのを感じました。
「今、私の話をされていたでしょう」
どこからか戻ってきたらしいリリィがドアからひょっこりと顔を出しました。
「リリィ様」
呼びかけたクウェートの視線の意味に気付いたリリィが、彼を元気づけるかのように笑いました。
「私は平気よ、クウェート。勿論、そうでなければ良いな、と思ってはいたけれど。あの方が何かを隠していることくらい、私にもわかっていたわ」
「そうだったのですか」
クウェートはラウド王子が間者を付けていたことも、リリィが王子の策略に気付いていることも何ひとつ知りませんでした。
「結局自分は何もできませんでした。それどころか、リトルリトルの方々に迷惑を掛けてしまい、なんとお詫びを申し上げたら良いのか」
自身の不甲斐なさに肩を落とすクウェートの手にリリィの手がそっと重なります。
「いいえ、クウェート。私、あなたがラウドを止めようとしてくれたこと、とても嬉しかったわ。私だけじゃないのよ、実はあの時リトルリトルの皆があの出来事を見ていたの。この国の人々は皆あなたに感謝しているのよ」
「そんな」
二人のやり取りを眺めていたリトル17世が、ふとリリィに尋ねました。
「ときにリリィ、そろそろ時間では?」
「あら、そういえばそうだったわ。あのね、クウェート。実は────」
「そんな! 話が違うではありませんか!!!!」
ミドル国の城内に、悲鳴にも似た王子の嘆きが響きます。
今日はミディア姫とラウド王子の正式な結婚の取り決めについて会談が開かれるはずでした。
ところが今になって、ミドル国から婚約を破棄すると申し出があったのです。
「まあ。まるでこちらに非があるかのような物言いをなさるのね。むしろ騙されたのはこちらのほうなのですけれど?」
レースが幾重にも重なった扇で口元を隠したミディア姫は冷ややかに言い返しました。
背筋が凍るほど美しく、恐ろしいその姿にラウド王子は一瞬言葉を詰まらせましたが、今日はすごすごと帰るわけにはいきません。
何とかミディア姫の言葉を撤回させようと必死に食い下がります。
「な、何を言っておられるのですか!? 私はあの日確かに姫の心を動かしたではないですか!」
「心を動かした本人が、貴方が嘘をついていたと私に教えてくれたのです」
パチン、と音を立てて扇を閉じたミディア姫が、益々強く王子を睨みつけました。
「…………本人? とは?」
「ラウド様。貴方、リリィと婚約されていたそうではないですか」
「そ、それは……!」
口ごもるラウド王子に、見かねたビッグ王が口を挟みました。
「姫。それは向こうが一方的に求婚してきていただけのこと。情の深いラウドは無下にすることも出来ず困っていたのです。なあ?」
水を向けられ、ラウド王子は慌てて頷きました。
「ええ! 父上の言う通りです! 向こうが勝手に婚約だなんだのと言い寄ってきて……」
「では、向こうの勘違いだと?」
「はい!」
「だ、そうよ。リリィ。貴方、これをどう思って?」
「……え?」
ミディア姫はにっこりと笑うと、胸元から一枚のハンカチを取り出しました。
おもむろに取り出されたそのハンカチは不自然な形に畳まれていて、ミディア姫が丁寧にほどくと、中からラウド王子のよく見知った人物が現れたのです。
「御機嫌よう、ラウド様。それにビッグ国王陛下も」
机の上に現れたのはリリィでした。
二人は唖然として口をぱくぱくさせます。
「リ、リリィ……なぜそんなところに」
「理由ですか? それは貴方がたに酷い仕打ちを受けたリトルリトルを、このミドル国が助けて下さったからです。ミディアとも今はすっかり仲良しに。ねぇ、ミディア?」
リリィはそう言って、ミディア姫と顔を見合わせ、互いに笑いました。
「聞きましたわよ、ラウド様。貴方、リリィを騙してリトルリトルの宝を盗んだあげく、それを止めようとした自分の従者を殺めたそうではありませんか」
「……いやっ、それは、」
「それは?」
ミディア姫が続きを促しましたが、ラウド王子から言葉は出てきません。
それまで黙って成り行きを見守っていたミドル国の王様が溜息交じりに話を続けます。
「ミディアが貴殿との結婚を承諾した本当の理由は、我が国が干ばつによって困窮していたからだというのはそちらもわかっていたはず。ですが、その心配はもうなくなりました。理由は貴方がたもよくご存じでしょう。こちらとしては貴国との関係を強める理由が無くなってしまったのですよ。それに聞くところによると今そちらは色々と苦労されているとか」
図星をつかれ、ビッグ王が唸りました。
あの後、国中の魔法使いたちがあの手この手を尽くしましたがラウド王子の奪った石は誰も使うことができませんでした。
偽物なのですから当然です。
リトルリトルの消えたビッガー王国は魔法を使い続けた反動で自然災害が頻発し、以前の暮らしが嘘のように再び食糧難に苦しむことになりました。
立場の逆転したビッガー王国は何としてもミドル国との協定を結び、食料の供給ルートを確保したかったのですが、ずっと行方を追っていたリトルリトルがミドル国に移り住んでいたとは思いもよりませんでした。
「他国を欺こうとする貴国に、大事な娘を嫁がせる訳にはいきません。どうぞ、お引取りを」
魔法で天災を他国に押し付けていたという噂が広がったビッガー王国は近隣諸国から梯子を外され、最期は苦しむ民の手によって長い歴史の幕を閉じました。
新たにこの地を治めることとなったのは、それはそれは美しい姫のいる国だったそうです。
その後、ミドル国ではひとつのおとぎ話が生まれました。
長く人々から愛されることとなったその物語は、一人の青年が小人の王国を悪い人間達から救い、その国のお姫様と結婚する……そんなお話だったとか。
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