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1.待ち合わせ
七月に入ったばかりの第一土曜日の朝早く。
六時半にわたしは同僚の山仲間である橘冴子と新宿駅西口にある高速バスターミナルで待ち合わせていた。
行き先は富士山の登山口に当たる「富士山五合目バス停」だ。
本来なら地道に麓の一合目から徒歩で上がるのが正しいのだろうが、それは今では一部の修験者のみのルートになっているそうだ。一般の登山客は「吉田口」と呼ばれる登山道を五合目から登るのがポピュラーになっている。
わたしは、学生時代、陸上長距離で少しは頑張っていたせいもあり、体力には自信があったものの、登山に関してはまるっきり素人であった。そんなわたしが何故、富士山に登ろうと思い立ったのかというと、密かに憧れていた橘に誘われたからという不純な動機以外に思い当たらない。
彼女は高校時代にワンダー・フォーゲル部であちこちの山々を制覇し、大学時代は本格的な山岳部に所属していて相当な登山上級者であった。彼女に誘われるままに、あちこちの手近な山を一緒に登るうち、わたしのことを登山経験者だと誤解したらしく、今回の山開き(七月一日だ)に合わせて、七月最初のホリデーを富士登山に当てたという次第だった。
手近な山々を巡るうちは、体力だけには自信があったわたしにも、取り立てて問題はなく、ただ、彼女の口にする登山用語にときどきついていけない時があったくらいのものであった。ただ、わたしにとり本格的な登山と呼べるものは正に今回が最初であった。
まあ、学生時代、長距離ランナーとして鳴らした経験から、体力に問題はないし、富士山が日本最高峰の山とはいえ、初心者でも登れるというガイドブックの謳い文句を素直に信じていた。
しばらくして、橘がやって来た。
「おはよう。山田くん。流石に七月となると六時台でももう明るいわね」
と、清潔感のある爽やかな笑顔で言った。
「そうだね。……でも富士山に登るにしては随分と軽装だね」
わたしは、橘の軽そうなリュックを見てそう言った。これまで、近郊の山に登るときでさえ結構な重装備をしていたのだ。それに比べるとまるでハイキングである。
「富士山って山小屋があちこちにあるし、必要なものは現地調達出来るから、そんなに構えなくていいわよ。必要なのは経験と体力だけよ」
「そんなものなのかい?」
「速い人だと四時間半くらいで登れるわ。自信ある?」
「さあ、どうだか」
わたしは謙遜しておいた。三千メートル級の山に日帰り登山並みのスピードなら、確かに重装備では辛いだろう。橘の勝ち誇った笑みに何だか嫌な予感がしてきた。
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