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2.旅程
そして六時四十分新宿発のバスに乗り込む。約二時間半の旅だ。
バスは結構混んでいた。富士山が世界遺産登録されたばかりで、しかも山開きすぐの週末とくれば、にわか登山客が増えても何の不思議もないだろう。わたしは、橘と隣り合わせに座り、吉田口までの二時間半をつぶすことにした。
都内を走るうちはよかったのだが、高速に乗り、中央道に入る頃には、同じ様な防音壁ばかりの景色を眺めるのにも飽きてきて、わたしは荷物の中からコンビニエンスストアで買っておいた缶ビールを取り出し、プルタブを引き、プシュッという音と共に湧き上がってくる泡を口で吸い取った。
「あら、あきれた。もう飲んでるの? 富士山五合目まで二時間もないわよ。アルコール抜けるの?」
「一本くらいいいだろう。それに、今回は俺はハンドルを握る予定はないんだし」
しかし、その一口が災いに転じたのを実感したのは、目的地に到着するのを待つまでもなかった。山梨県内に入り、富士スバルラインを淡々とバスが上っていくのに合わせ、わたしの酔いが予想以上に回ってきたのだ。一体何としたことだろう? たかが、ビール一缶だ。いつもだったら、口を湿らす程度に過ぎない量だった。なのに、頭がくらくらし、酩酊状態になったのを実感した。
わたしは、左手首につけていたプロトレックの気圧計を読んだ。
七九〇ヘクトパスカルを示していた。結構な低気圧状態だ。飛行機の中ではアルコールがよく回ると言われるが、あれと同じ状況だった。標高は約二三〇〇メートル。登山口にしては高すぎた。今まで登ったどの山より高い位置にあった。
九時五分過ぎ。バスはほぼ定刻通り富士山五合目に到着した。
橘はうきうきした様子で、網棚の自分のリュックを下ろしていた。それに引き替え、わたしは、というと、幾分酔いは覚めたものの、乗り物酔いなのか、アルコールによるものなのかさえ定かではなく、気分は最悪であった。バスを降りて、高山病になるのを防ぐため、おおよそ一時間、辺りを散策し、体調を気圧に慣らすことにした。
「五合目で、二三〇五メートルもあるのね。昔の人は一合目から登ったんだから大した違いだわ。ねえ?」
「そ、そうだね。おかげで、早速、高山病みたいだ。頭がくらくらする」
「ちょ、ちょっと、大丈夫? だからビールなんか飲むから」
ビールだけではなかった。実際にこれまで登った山は全部千メートル以下のものばかりで、これほどの高所にまで到達したのは初めての経験だった。山岳部で高峰を縦走した経験のある橘とは雲泥の差があった。橘はわたしのことを、まだ、学生時代陸上部で鳴らしたスポーツマンだと思いこんでいる。あいにく、山は初心者なのだ。
とりあえず、橘はわたしを介抱して売店の二階にある食堂まで案内してくれた。ここで、一服し、経過を見ることにした。
他にも客はいた。皆、この二三〇〇メートルの高度に身体を慣らすために、一時間ほど時間をつぶす様子だった。
わたしが、すっかりしょげている間、橘は今のうちにエネルギー補給、と、言わんばかりにラーメンを食べていた。そうだ、これから、エネルギーを消費するんだ。わたしも何か食べておかなくてはと思い、食欲のない時に食べられるカレーを食べようと、財布をリュックの中から取り出し、券売機の所に歩いて行った。すでに標高が高いだけあり、カレーも高かった。しかし、この際、文句は言っていられない。ここで食事を摂っておかなければ、次のチャンスは山小屋にたどり着くまでないのだ。
美味しそうなカレーだったが、食欲は少しも湧かなかった。頭はくらくらし、頭痛もしてきた。本格的に高山病だった。
「どうする? 中止にする?」
橘はカレーを前に、食べるのを躊躇しているわたしに問いかけた。彼女にとっては久々の本格的登山であり、折角の休日をこうしてここまで来ているのだ。わたしの体調不良のためだけに計画を頓挫させるのに忍びなかった。情けない。ただ情けなった。
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