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3.富士山
「ううむ……」
なおも考え込むわたしに橘は提案した。
「ね、ガイドブックによると乗馬で七合目まで行けるみたいよ。乗って行く?」
「馬で?」
確かに魅力的な提案であった。乗馬で七合目まで登るのならば、しばらく、休むことが出来そうだし、その時間で高度に身体を慣らすことも出来そうな気がした。
「橘さんはどうするんだい?」
「え、あたし? あたしは歩いて登るわよ。体調もばっちりだし」
「それでは、男が廃るというものだよ。俺も歩いて登る」
「無理すると、登っても降りられなくなるわよ。そうなると、山岳救助隊のヘリコプターに乗る羽目になるかも」
「ううむ……」
なおも決心がつかないわたしに、橘は別の提案を持ちかけた。
「登山は諦めてハイキングに切り替えましょう。ここから、御庭へ出て、御中道へ進んでいくと大沢崩れの直下に出るわ。そこまでだと、距離の割に高低差がないからハイキングにちょうどいいんじゃないかしら?」
「申し訳ない」
「いいわよ。あたしだって、今まで他人に迷惑を掛けたことがないかって言われたら、そうとも言い切れないもの。それに、御中道だって富士山を満喫できるわ」
橘は爽やかな笑顔でそう言った。
一時間が経過してある程度二三〇〇メートルの高度に慣れてきたわたしは橘と連れ立って、リュックを背負い、売店を出て、富士山の周遊道路である御中道へと向かった。
「悪かったね」
わたしは素直に謝った。
「ううん。こんなことで、貴重な山仲間を減らしたくないもの」
彼女は率直に本音を述べた。
けれど、ここはここで、楽しめた。
ちょうど森林限界(樹木が生えるギリギリの高度)の小径を二人で景色を楽しみながら歩けたのだ。それに、ときどき、沢やガレ場に遭遇し、そういうとき、わたしは彼女の手を取り、エスコートした。彼女の手のひらがやけに柔らかく感じた。
「また、二人で山登りしてもらえるかな?」
わたしは恐る恐る尋ねた。彼女はうふふと笑みをこぼした。
「いいよ……二人で。でも、低山から慣らして行きましょうね。ずっと登り続けたいから」
橘は素敵な笑顔でそう言った。
「ありがとう。そうするよ」
それからはずっと二人で登り続け、いつしか真剣な交際になっていった。
翌年の富士山の山開きの日。わたしたちは婚約した。 了
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