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第2話
先日、行われた血液検査の結果が出た。
封筒に入れられたそれを、教師がいなくなった瞬間に、みんながびりびりと破き始めた。
「やっぱり、俺、アルファだわー」
「俺も」
「想像通りすぎて、おもんない」
良家の坊ちゃんたちが口々に素の言葉を述べて、へらへらと笑っていた。僕は、渡された封筒を抱きしめて、なんだか居心地の悪い教室を出た。
静かで落ち着く図書室に、様子をうかがいながら入ると、司書の穏やかで静かな先生がカウンターに座っているだけで、誰もいなかった。入口から奥に奥に進み、絵画の図鑑など、重くて誰も手に取らない資料コーナーで、僕は本棚に隠れて、腰を下ろす。
控え目に封を切ったのに、やけに周りに、ぴり、と音が響いた気がして、肩がすぼんだ。一応、辺りをきょろ、と見渡して、改めて誰もいないことを確認してから、中をそっと取り出した。
十歳になると、第一回バース性判定検査を行うことが国に定められている。僕たちもその法令に従って、学校に医師を呼んで行われた。
まだ習っていない漢字がたくさんあって、よくわからなかったが、太字で中心に「Ω」というマークが印字されていた。このマークは「オメガ」だと先日の授業で習った。
アルファとベータと、オメガ。男と女という性別の他に、この三種類の性別に人は分けることができる。五年前に、つつじに囲まれて、誓ったあの日を思い出して、僕は身体がかっと熱くなるのがわかった。いそいで、熱を逃がすように、ふう、と息をつくと、ようやく全身の力が抜けたのがわかった。
(やっぱり、僕は、オメガだったんだ…)
あの日。
彼が言っていたことは、本当だったのだ。と僕は、顔が綻んでいくのがわかった。
(僕、さくのお姫様になれるんだ…)
番、という契約は、アルファとオメガにしか成し得ない一生の契約なのだということを先日教わった。それらが、五年前に彼に伝えられたことの意味の深さや重みを、今なら少しはわかる。幼いながらにその重大さを感じて、僕はむずむずとした気持ちになって、顔が真っ赤であることから教師に心配されてしまったことを思い出した。
(早く、さくに伝えたい…!)
封筒に診断用紙を急いでしまって、立ち上がった。彼のいるクラスへと走っていき、教室をのぞくと、彼の周りにも、いつも以上に人だかりができていた。声をかけようとするのをためらってしまう。
「咲也くん、すごーい!」
「やっぱりアルファだったんだねえ」
甲高い声が聞こえて、呼びかけようと吸いこんだ息があっさりと身体から抜け落ちていってしまった。彼の周りにいる子たちが騒いでいる。ときん、と心臓が揺れて、やっぱりそうだったんだ、と嬉しさに頬が熱くなる。
「ぼくはね、オメガだったよ」
「ぼくも!」
「ぼく、咲弥くんの番になりたいなあ」
さっきまで明るい心音をたてていたのに、鈍い音が身体の中から聞こえてきたようだった。どく、とこめかみを血流が巡る。
「ずるーい!ぼくのほうが、先に咲弥くんのこと好きだったのに!」
「ぼくのほうが先だった!」
「うそつき!」
彼の周囲の児童たちが言い争いを始めてしまった。
その時に、僕は最近感じ始めていた、彼の生きる世界との壁の高さをまざまざと気づかされてしまった。
ふと我に返ると、中庭にいた。息を切らしていて、走ってきたのだと伝ってきた汗で気づく。ごし、とブレザーの袖で乱暴に拭って、よく彼と並んで本を読んだりお話をしたりするベンチに一人、腰掛けた。手元に目を落すと、封筒は力強く握っていたようで、ぐちゃぐちゃに皺を寄せていた。それに気づいて、膝の上で、手のひらで何度もさすって、皺を伸ばす。なんだか、胸が苦しくて、ぽた、と封筒に雫が落ちてシミができた。また、汗かと思って、袖で拭うが、ぽたぽたと、どんどんこぼれてくる。
最近、こういうことが増えた。
前までは同じクラスに彼がいて、いつも一緒にいられた。
いつだって、彼の瞳には僕が映っていて、彼も僕だけに甘やかな微笑みを見せてくれていた。
クラスが替わってからは、彼の周りにたくさんの人がいるってことに、気づかされた。その中に、彼が招いてくれたこともあるけど、誰も僕の話なんか聞いてないし、視界にも入れてくれない。みんなが一生懸命、彼に話しかけて、好きになってもらおうとしているのを感じてしまってから、彼に声をかけるのがなんだか億劫になってしまった。それでも、彼が、僕に気づいてくれて、みんなに断って、いつも僕と二人っきりになってくれる。いつだって僕を優先してくれた。
それは、彼と僕とに誓いがあったから。でも、世の中には、彼を求めるオメガというのは、僕一人だけではなかったのを、今、目の前で見せつけられて、心がちくちくする。
(この地球上に、アルファはさくだけで、オメガはぼくだけなら、良かったのに…)
にじんだ視界を戻そうと、まぶたを袖で拭って顔をあげると、遠くに彼の姿が見えた。一人で、きょろきょろと辺りを見回している。なぜかわからないけど、今は彼に会いたくないと思って、こっそりとベンチを降りて、校舎内に戻る。そっと振り返ると、彼はベンチの近くにいて、同級生か上級生かわからないけど、何人かに声をかけられて取り囲まれていた。それにすら、ずき、と身体が痛んで、呼吸が苦しくなる。急いで、僕は落ち着ける図書室に逃げ込んだ。
本棚に隠れて、腰を下ろすと、静かに涙が頬をつたっていく。膝を抱えて、誰にも気づかれないように小さく丸くなる。声を殺して、何が悲しいのか、苦しいのか、くやしいのかもわからずに、泣き続けた。
(さくは、僕の王子様なのに…)
アルファだったと自慢気に笑っていた同級生。アルファの彼を取り合うように喧嘩をしていた、オメガだという彼の同級生。
それらを思い出して、さらに息がつまる。
(僕が、さくのお姫様なのに…)
みんな、嫌だ。
さくは、僕のなのに。
気安くさわらないで。
話しかけないで。
嫌だ。やだ。
さくも、僕以外と仲良くしないで。
僕だけを見て。
そんな卑しいことを考えてしまっている自分の狭い心に気づいて、さらに傷ついて涙がとまらなくなってしまう。嗚咽も出てきてしまって、身体も震える。止めようとすると、さらに止まらなくなる。
(どうしよう、どうしよう…)
苦しい。ひゅ、ひゅ、と身体から聞こえて、息が吸えなくなる。目の前がぐるぐると回るような気がしてきた。判定結果の紙ごと、胸元を強く握り締める。床に手をつくと、滲んだ視界の中にぽたぽたとシミの出来る木目が見えた。
(苦しい…苦しいよ、助けて…)
さく…
心の中で唱えたとき、ふわ、と風が動いた。温かい何かに包まれる。
「聖、大丈夫。俺がいるよ」
耳元に熱い吐息が吹き込まれるように、鼓膜が揺さぶられる。浅い呼吸のまま、うつろに見上げると会いたくて、会いたくなかった、彼がいた。
「さ、っ、っ…」
名前を呼ぼうとするが、声にならずに、より息が苦しくなってしまった。
大きな手のひらが何度も背中を優しく撫でる。
「大丈夫だよ」
柔らかな声が、あたたかい体温が、大好きな彼が、僕を包み込む。溢れる涙を、優しく指で拭ってくれる。微笑む彼は、何よりも美しかった。
聖、もう大丈夫だよ、と何度も何度も囁いてくれた。くずれるように彼にもたれかかると、全身で包み込んでくれる。彼の胸元をゆっくりと深呼吸をすると、甘い香りがする。あの、力強く輝く、マゼンダ色のつつじの匂いのようだった。少しずつ、強張っていた身体から力が抜けて、脱力してきた。呼吸もゆっくりとしてくる。
彼がここにいてくれる。たったそれだけのことで、僕は驚くほど安心する。
でも、彼がいないと、とてつもなく不安にもなってしまう。
僕の呼吸が落ち着いても、彼はずっと抱きしめてくれていた。その優しさに甘えて、もうすっかり良くなっていたのに、彼の身体にしがみついて、離さなかった。大好きな彼の時間を独り占めできるのは、ここ最近なかったから。
「さく…」
小さく、本当に小さくつぶやいたことにも、彼は気づいてくれて、嬉しそうにくすくす笑った。
「なぁに、聖」
僕を抱きしめたまま、彼が耳元で同じように小さくつぶやいた。それが、くすぐったくて、嬉しくて、しあわせで。
「さく…、さく」
彼の胸元に顔を押し当てると、よりきつく、抱きしめてくれる。
「聖、かわいい」
僕の頭に頬をすりすりと寄せる。回転の遅い脳みそが、言葉の意味を理解して、彼の胸を押しやった。彼は、目を見開いて、僕をまっすぐ見つめていた。
「そ、そういうこと…簡単に言っちゃ、だめ、だよ…」
心臓が暴れるほど、嬉しいのに、言葉では違うことを言ってしまう。だって、その言葉に、期待してしまうから。そうした、邪な感情がなんとなくだが、最近わかるようになってきていた。
才能あふれる彼を、僕なんかが独占して言い訳がないのだ。
学年で、たくさんの子から告白をされているあの子や、一番勉強ができるあの子、習い事でたくさん賞を取っているあの子も、みんな、彼のことが好きなのだと、誰かが囁いているのを聞いた。
彼は、そうした雲の上の存在なのかもしれない。と、幼いながらにもぼんやりと感じていた。
だから、僕なんかが、こんな風に慰めてもらったり、甘い言葉をもらったりしてはいけないんだ。
期待なんか、してはいけないんだ。
だって、彼は、僕なんかじゃ釣り合わない、すごくすごく、素敵な人だから。
僕にとっては、一生で一番の宝物の、あの日の誓い。でも、僕よりもたくさんの人と色々な時間を過ごす彼にとっては、ほんのささいな遊びみたいな、子供の頃の出来事でしかないだろう。きっと、もう忘れ去られている。
そう考えていると、止んだ涙が、またじわじわと視界を埋めていく。
「なんで?」
一人でぐるぐる考えていると、彼は、小首をかしげて、本当に訳が分からないといった顔でこちらを見ていた。
「なんで、って…」
まさか、そんなあっけらかんと疑問で返されるとは想定しておらず、僕も困ってしまった。
「かわいいから、かわいいって言って、なんでだめなの?」
「それは…」
思っていたことを、そのまま伝えてしまったら、僕が彼のことが大好きだということが伝わってしまう。だから、難しくて、言葉を選んでいると、くす、と笑う吐息が聞こえて目線を上げる。彼は柔らかく微笑み、僕の頬を宝物のように、そっと撫でた。
「かわいい」
ど、とまた心臓が大きく跳ねた。
「っ、だから…っ」
「聖だから、かわいい」
この瞳にとらわれてしまうと、逃げることができなくなってしまう。
ほんのりと染まった彼の頬の色に、どうしても、僕は期待せざるを得なかった。
「…どういう、こと?」
両頬を優しく包みこまれて、彼がより近くにいるのを感じる。その手首に、指をかけて、見つめ返した。透明度の高い瞳は、奥深く無限に広がっているように見えてしまう。宇宙のように美しいと見惚れてしまう。
「世界で、たった一人の、俺のお姫さまだから」
温かな吐息を感じたと思うと、頬に柔く、ちゅ、としっとりと吸い付かれた。
ほろ、と大粒の涙が、反対の頬を滑っていった。
「さ、く…覚えて…」
僕だけの、大切な誓いだと思ってた。
だけど、目の前で、照れくさそうに眉毛をさげて、頬を赤く染めた彼が、とろけるような笑みで、はっきりとうなずいた。
「聖も覚えててくれたんだね」
まなじりが優しくさがる。こんな彼の顔、知っているのは僕だけだろう。
「俺、アルファだったよ」
本当は、聖に一番に伝えたかった。
そう囁いて、頬にもう一度、ゆっくりと吸い付いた。背筋がぞわ、として、身体が勝手に小さく震えた。それなのに、身体は火照っているようだった。甘い匂いが、より強くなった気がした。
「僕、も…さくに、一番に、伝えたくて…」
賢い彼は、それだけでわかったのだろう。顔を、ぱっとあげたと思ったら、目をきらきらと輝かせていた。そんな純粋な瞳を向けられて、なんだか気恥ずかしくなってしまう。
「あのね…僕…、オメガ、だったよ…」
「知ってるよ」
意を決して伝えたのに、彼からはあっさりとした返答が返ってきた。目を見開いて、彼を見上げる。
「な、なんで?」
「当たり前でしょ?だって、俺たち、運命なんだから」
ぎゅう、と強く抱きしめられると、耳裏のあたりを、すん、と匂いがかがれる。その吐息に、ぴく、と身体がなぜが反応してしまう。
「ほら、聖…いい匂いがする」
「ひゃっ」
彼の長い指が、僕の襟足をなぞる。ぞく、と寒気のようなものが全身に強く走って、肩をすくめてしまう。思わず、びっくりして声が漏れてしまったが、自分でも聞いたことのない声で、恥ずかしくなってくる。彼も驚いたようで、急いで距離をとっていた。お互い、顔を赤くして、目を丸めている。なんだかおかしな姿だが、心臓が高鳴り、身体のあちこちが熱い。先ほど触られたうなじが、ひりひりとする。まるで、そこを強く主張しているかのようだった。
「さ、く…」
身体の中の熱を逃がすように、口から漏れたのは、熱い吐息と共に彼の名前だった。
「聖…」
彼も、桃色のきれいな唇から、僕の名前をこぼした。ゆったりと、それが近づいてくる。
「俺の…俺だけの、お姫様」
長い睫毛が絡み、瞼を降ろす。湿った空気が唇をかすめると、しっとりと合わさった。
何の音もなく、触れて、離れていく。
「好きだよ…」
うるんだ瞳の彼が、甘く囁く。胸がつまってしまい、なんと言葉にしていいのかわからないまま、下唇を淡く噛み締めていると、彼の整った顔が角度を変えて、また近寄ってくる。食むように、温かな唇が僕のそれを挟む。ちゅ、小さく音が響き、身体がかすかに震えているのを感じた。じんじんと、頭が痺れているような気がする。
頬を擦り合わせながら、正面からまっすぐに抱きしめあった。とくとく、と早い心音が聞こえる。僕のかもしれないし、彼のかもしれない。ふわりと漂う甘い匂い。僕を包む体温。ずっとずっと、こうしていたかった。
たった十歳の、僕の大切な思い出。
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