632人が本棚に入れています
本棚に追加
第53話
母が、庭の紅葉がもう終わってしまうから、その前に、庭でティータイムをしたいと言い出した。ずっと引きこもっている僕を気遣ってのものだとわかってはいたから、その日は、付き合うことにした。久しぶりに出る外は、すっかり秋模様になっていて、例年に比べ、温かな秋だと言われていたが、もう落葉は半分は終わっていた。庭師が丁寧にレイアウトしている西洋風の庭園は、紅茶が似合う。白い机に椅子、足元には簡易ヒーターが用意されていた。温かなコートを着るように言われたが、今日は日差しもあって、厚めのカーディガンひとつを着て、庭に出た。料理長お手製の焼き立てのスコーンと、自家製ジャムが目の前に置かれ、紅茶が豊かな香りを漂わせながら、母のお気に入りのカップに注がれた。
秋の澄んだ青空と空気が、ずいぶん懐かしくて、深呼吸をすると、僕の様子を見て、母は笑みを深めた。ちらりと母のお付きの執事が、母と目を合わせると、紅茶を一口飲んで、立ち上がった。
「聖、ごめんなさい。これからお友達とダンスのレッスンなのを忘れていたわ」
眉を下げて首をかしげて、母は両手を合わせていた。紅茶は入ったばかりだというのに。目の前の豪勢なセットは、食が細くなった僕には多すぎる。困って母を見上げると、優雅にあたたそうなストールを肩にかけなおして、外にいるだけでも身体は元気になるものよ、と微笑んで、僕の肩を軽く叩いて、屋敷へと戻っていってしまった。
ゆったりと過ごせるように、母が気を使ってくれたのだ。どうしようかと悩んだが、ちち、と遠くで鳥の鳴き声が聞こえて、空間の広さに心が解放されていくのを感じて、椅子に深く座り直した。今まで、小さな部屋の中にずっと閉じこもっていたから、母の言う通り、少しは外の世界に触れていよう。カップを引き寄せて、湯気をたたせる紅茶を舐める。温かな液体が体内にじわりと浸み込んでいく。そして、紅茶の香ばしい豊かな香りが鼻から抜けると、身体の緊張も一気にほぐれていく。
柔らかい日差しを受けて、風や鳥の声に耳を傾ける。深く息を吸うと、眠っていた器官が芽吹くような感覚があった。穏やかなひと時に、何を自分はずっと追われていたのだろう、と思った。組んでいた手がたまたま下腹部にあって、そっと撫でる。気づくと、じゅん、と疼くような痛みがある気がする。
冷たい風が頬を撫でる。かさかさ、と乾いた葉のこすれる音がする。なんだかくすぐったくて、身体の力がふと抜けた。紅茶を一口飲んで、息をつくと、どこか、ふわりと甘い匂いがする。懐かしい、そんな甘い匂い。こんな風に息が出来るのはいつぶりだろう。うっとりとまばたきをすると、滲むような多幸感と同時に、冷たい焦燥のような不安のような、もどかしい気持ちも湧いて湧いて現れる。
(今、彼は何をしているのだろうか…)
いけないと何度も思うのに、もう忘れようと何度も思うのに、どうしていたって、彼のことを考えてしまう。それもそうだ。なぜなら、僕は、物心ついたころから、もう彼と一緒にいて、ずっと好きでたまらなかったのだから。こうやって恋しいのが当たり前の人生だった。彼を思うことが身体に擦りこまれていた。
(もう、どうでもいい)
椅子に深く腰掛けて、寒風にふるりと身体を震わせて、紅茶で暖をとる。一息つくと、ふわりと甘い匂いがする。空を見上げると、遠くにある青空に、うっすらとした小さい雲がたくさんかかっている。
(会いたい…)
いや、会いたくない。
そう思ったあとに、もう会えないんだ、と思い直す。
この空の下に、彼はどこかにいて、誰かといる。僕は、独りぼっちで、うずくまるしかないのだ。
キィ、と鉄の音開く音がする。中庭につながる小さい鉄柵が風で開かれた音だろうか、となんとなしに振り返ると、息が止まった。何か幻影を見ているのだと思った。ありえない。
目を見開いて、口を開け、呼吸をするのも忘れている僕に気遣ってか、テーブルの近くにいた執事は、ティーセットをもう一つ用意してから、寒そうにしていた僕のためにひざかけをとってくるといって、席を離れた。鉄柵のもとにたたずんで、じっとこちらを見ている彼に、僕の隣の席を勧める仕草をして、頭を下げて隣をすり抜けた。
しばらく、僕をちらりと見たり、足元を見たり、視線を泳がせていた彼は、意を決したように僕のもとへ長い脚でゆっくりと歩み寄ってきた。じ、と見つめるだけでいると、彼は僕の近くで見下ろしてから、眉を下げて情けなく笑った。
「隣、いいだろうか…」
どうしようか、と今度は僕が視線を泳がせていると、くすりと彼が優しく笑っていて、隣の椅子に腰かけた。風に乗って、ふわりと匂う。
(ああ…さっきから匂っていた甘い匂いは…)
彼の匂いだったのか。
ぽや、と脳の奥がほどけるような心地よさがあるのを、紅茶をこくりと飲んで流し込んだ。カップを抱えながら、視線だけ上げると、彼は執事が注いだティーカップを手に、一口飲んだところだった。高い鼻梁の下の薄い唇にカップがつく。とがった顎のきれいな曲線をたどると、張り出した喉仏が上下に動く。ただ、同じ紅茶を飲んでいるだけなのに、妙に目が引かれて、身体の奥がじん、と熱くなるのを感じる。
僕の視線に気づいたのか、ぱちりと交わると、急いで僕は目を反らした。
「…何しにきたの」
そっけなく、冷たい声が出てしまった。そんなこと言いたい訳ではないのに。その声に反応するかのように、彼の指先がぴくりと跳ねたのを視線の端で感じた。かちゃり、とソーサーにカップを戻して、彼は自信なさげに指先をテーブルの上でこすり合わせていた。
「聖に、会いに…」
(うれしい)
素直に心の中でそう言葉にした自分を、急いで奥に押し込んだ。
(会いたくなかった。そう、僕は、もう彼とは、会ってはならない)
首を横に振って、そうだそうだと自分自身に言い聞かせる。
(何度も信じてきた…でも、裏切られて、つらくて、消えたかった…)
もうそんな思いしたくない。
他人から蔑まれることも、彼が本当は迷惑がっていることも、それに気づけないで一人で舞い上がっている自分も、全部が嫌なんだ。
考えていると、ぐう、と喉の奥が絞られる。大好きでたまらない人が目の前にいるのに、諦めなくてはならない現実があまりにも、僕を苦しめる。
(もう、会いに来ないで)
苦しくなりたくない。
そう伝えようと、胸元で手を握りしめて、息を飲んだ顔を上げる。決意して目線をあげたのに、僕は目を見張って、固まってしまう。
秋風が頬を撫でて、彼の少し伸びた毛先を揺らす。甘い、彼の匂いが僕に鼻腔をくすぐる。深い青に染まった瞳は、潤んで、小さな星を埋め込んだようにつややかに輝いていた。眉根を寄せて、頬を染めた彼は僕をまっすぐに見つめていた。
「聖…会いたかった…」
噛み締めるように、うなるように彼がそう囁いた。鼓膜が甘く揺さぶられて、ぞぞ、と背筋が震える。身体の奥から熱がこみ上げてきて、かすか震える。
心の奥からのつぶやきのような彼の熱い言葉に、全身が歓喜して震えている。今すぐにでも、その胸元に抱き着いて、好きだと言ってしまいたくてたまらなくて、前かがみになって足元に体重が移動したことに気づく。は、と我に返り、なけなしの理性がそれを踏みとどませる。
(どうして…)
目の奥が鈍く痛んで、ぼろり、と大粒の涙が溢れた。瞬きをすると、睫毛に沿って、雫がぽとりと落ちていく。大きな手が、そっと近づいてきて、それを拒絶するように首を引くと、彼は眉間のしわを濃くして、目を伏せながら、居場所のない手を引き戻した。その手を強く握りしめると、彼は顔を上げて、笑顔を張り付けていた。
「この時間なら、またこうして、会えるか…?」
嗚咽が出ないように、口元を押さえて、震える唇を噛み締める。首を横に振ると、涙が散った。彼は、息を詰まらせた後、立ち上がった。びくり、と肩が跳ねて、彼を見上げると、すぐに振り返ってしまい、表情は見えなかった。
「また来る」
(来ないで…)
そう言いたかったのに、震える唇からは、吐息しか出なかった。
上背のある、ダークグレーのスーツを着こなす美しい後ろ姿に必死に視線を送る。
(行かないで…)
かたり、と椅子を押して立ち上がる。追いかけて、あの背中に頬を寄せたい。熱い身体に閉じ込められたい。
その考えを打ち消すように、首を横に振ると、涙が溢れて、頬を冷やした。卑しく、いまだに望んでしまう自分が心底嫌いになる。
それでも…。
会ってしまうと、やはりだめだと思った。
(好き…)
どんなに嫌いになろうと思っても、拒絶を誓っても、会ってしまえば、あの瞳に見つめられれば、匂いを嗅いでしまえば、全身が、心が、好きだと叫び震えてしまう。
(嬉しい…)
愛想をつかさないで、会いにきてくれることが。
会いたかったと言ってくれることが。
僕の一挙一動に、表情を変えていることが。
彼も、僕と同じように、僕のことでいっぱいになっているのかもしれないと思えることが。
また、会いたいと言ってくれることが。
それなのに、なぜ、涙が止まらないのだろう。
(さく…さく…)
膝を地面について、その場で自分を抱きしめるように蹲る。
苦しい。愛おしい。つらい。恋しい。
苦い感情がたくさん身体の中で渦巻き、出口がないまま、頼りない僕の身体の中を縦横無尽に駆け巡る。
(僕を、嫌いになって…)
そうしたら、僕だってはっきりと諦められるのだから。
最初のコメントを投稿しよう!