第1話

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第1話

 こぼれ日に誘われて、空を仰ぐと、木の葉の隙間からきらきらと星が降ってくるように輝いて見えた。新緑の淡い緑を透かして、春の日差しがさんさんと僕に降り注ぐ。す、と深く息を吸うと、穏やかな優しい春の匂いがする。いつもは動かない表情筋が、少し和らぐのがわかった。  いつもと同じ。誰しもが授業に参加している時間に僕は登校する。そして、物静かな司書しかいない図書室へと直行する。軽く会釈をして、本棚の奥に隠れる、窓際の隅の自習スペースに腰を下ろす。大きな窓ガラスからは、深い森しか見えない。春の日差しを受けて、めいっぱいに芽吹く緑は僕の心をほぐす、唯一の材料だ。  今日も、静かなここで、本を開く。  それが、僕のルーティーンだった。桐峰学園の名物である、校門からの桜並木を歩いていると、今日はいつもと違うことがあった。  それは、桜並木にあるベンチで、誰かが座っていることだった。それは、うちの学生だった。この時間に、教室にいないのは、僕のような特殊な人間か、不良か。姿がはっきりと見えてくるところで、僕は足を止めてしまう。 「ねえ、咲弥。早く部屋に行こうよ」  隣にいる小柄で愛らしい男が、長い脚の内腿のあたりに手をかけて、わざと撫でるように動かす。それをわずらわしそうに、一瞥して、彼は僕に気づいた。光を浴びて、色素の薄い、彼の髪は澄んだように輝く。長い脚は隣の男よりも何倍も長く見える。遠くからみても、彼の涼し気で艶やかな顔立ちの良さがわかる。  一瞬だけ、目があったような気がしたが、それはすぐにそらされてしまい、確認することはできなかった。僕も、彼のその仕草に、ぐさり、と心臓をひと突きされた痛みを感じて、足早にその場を逃げる。  息を切らしながら、図書室前に薄暗い廊下の小さいソファに座り込む。ぽた、と伝う汗が気持ち悪くて、身体が冷えていく。  いつものことなのに。  もう、あんな風景を何度も目にしてきて、何年も経つ。この学園に入学してから、彼はああいう風に、いつも違う男の子とべったりと寄り添っていることばかりだった。  慣れたはずなのに。  いつだって、あの景色を見ると、心臓がずたずたに痛みつけられる。  彼、西園寺咲弥は、僕の初恋の人だった。  正しくは、今も、この恋を、僕は捨てきれないでいる。  でも、その恋は、終わったものだった。  終わらせなければならない、叶わない恋なのだ。  なぜ、そうなってしまったのだろう。  僕は、瞼を降ろしながら、好きだと言われた、まばゆい過去を思い出す…  彼の庭には、立派なつつじがあった。風に乗って、甘い匂いを運ぶ。大人の背丈ほどの大きなもので、咲き誇るそれに毎年目を奪われた。  彼の屋敷は、それは立派だった。国内に留まらず、全国屈指の大手企業である彼の家は、財力権力、すべての大きさを表すように広大な土地に豪華な佇まいであった。庭には噴水があったし、他にもバラ園や季節折々に楽しめる樹木もたくさんあった。それでも、僕は、このつつじが好きだった。つづじの下にしゃがんで、彼と二人っきりで過ごす秘密の時間がたまらなく好きだったからだ。  大人たちがテラスでいつものように紅茶をすする間に、僕と彼は庭で遊んだ。 「母様、聖と遊んできていい?」  そう彼が自分の母親にねだると、にこりと笑ってうなずいていた。それを僕の両親は心底嬉しそうに笑っていた。その時は、よくわかっていなかったけれど、今、振り返ると、あの時、僕の両親は、彼の両親にいい顔をするためにたくさん取り繕っていた。彼の両親に少しでも気に入られるために。だから、彼が僕を気に入ってくれていることは、大変嬉しいことだったのだと思う。それは、ビジネス的な意味で。 「聖、いこっ」  色素の薄い彼の髪が、太陽に照らされて金に光る。そのまぶしさに目を細める。そして、伸ばされた熱い手を握りしめると、心臓が飛び出してしまうのではないかというくらい高鳴る。頬は熱くなり、ついつい口角があがってしまう。そうすると、僕よりも大人びた顔つきの彼も、頬を染めて満面の笑みを見せる。そうして、笑い合える時間が宝物だった。  そして、大人たちの目が自分たちから逸れた頃合いを見て、木々の中にむぐっていく。少しすると、大きなマゼンダが咲き誇る、僕たちの秘密基地が現れるのだ。握った手をそのままに、お互い見つめ合って、何がおもしろいのかわらかないけれど、二人でくすくすと笑いあう。 「さく、知ってる?」  マゼンダ色の立派なつつじに鼻を寄せて匂いを楽しんだあとに、彼に振り返る。僕の姿を見つめていた彼は、優しい声で、「なに?」と聞き返してくれる。それが嬉しくて、また頬がゆるんでしまう。 「これね、おいしいんだよ」 「どれ?」  これ、と指を指したのに、なぜか彼は顔をよせてきた。さらに心臓が強く主張してしまう。びっくりして、目を強くつむってしまうと、頬をがじりと噛まれた。 「いてっ」 「本当だ、おいしい」 「ちがうよっ」  頬を膨らまして、いたずらに笑う彼に空いている手で肩をぽかぽかと叩く。それにもくすくすと笑い合って、本当に楽しかった。  つつじの花をひと房手折る。そして、根本に唇を寄せる。ちゅ、と吸うとほんのりと花の蜜の味がする。 「庭師のおじさんに教えてもらったの、あまいんだよ」  じ、と真顔で見つめる彼の瞳が、いつもと違う色味を持っていて、何かいけないことをしてしまったのかと、恐る恐る名前を呼ぶ。彼は、ゆっくりと手をあげて、僕の頬を撫でた。 「どうしたの?」  その手に手を重ねて、頬を寄せ、首をかしげた。 「聖…」  春のあたたかな日差しを一瞬、雲が遮り、あたりがうっすらと暗くなった。その一瞬に、目の前には、彼の宝石のような透き通る瞳があり、唇に柔く温かいものが触れた。まばたきも忘れて、離れていく彼の瞳を見つめた。その瞳は潤み、頬も上気していた。そして、つややかな唇を赤い舌がぺろり、と舐める。 「本当だ…あまい」  彼がそうつぶやくと、雲が日差しを元に戻した。  僕は今、自分に起きたことにようやく頭が追いついてきて、身体中に熱がこもり出す。 「さ、く…いま、の…」  幼い僕でも知っていた。  絵本をたくさん読んでいたため、これは、お姫さまが王子さまにしてもらうものだとわかった。  恥ずかしくて、手を離そうをすると、急に彼が力をこめて握ってきて、離すことは許されなかった。じわじわと目に涙がたまってくるのを感じた。もう片方の手で口元を覆い、彼から目を背ける。こめかみが痛むほど心臓が早鐘を鳴らしている。 「やだ…さくっ…」 「なんで、聖」  訳がわからなくて、涙がぽろ、と頬をつたう。どうして泣いているのかもわからない。それぐらい、僕は心を乱して驚いていたのだ。それに気づくと彼は見たことのない、悲しい顔をしていた。 「…そんなに嫌だった?」  小さな手なのに、なんでそんなに力強いのだ、と思うほど、肩をつかんで振り向かせた手は勢いがあった。そして、いつも朗らかで、自信にあふれた眼差しは、頼りなく揺れていた。 「ぼ、ぼく…お姫さまじゃ、ないもん…」  ごちゃまぜの頭のまま、なんとか絞り出した答えがそれだった。それに、彼はまっすぐ真剣に答えた。 「俺は、聖の王子様だろ?」  当然、といった様子で、幼い彼は言い放つ。でも眉は寄せられ、不安気に翡翠のような瞳は俺を見つめていた。でも、言葉通りだから、うなずくしかない。僕の王子様は、間違いなく彼だったから。  すると、彼は、ほ、と肩を落として、微笑んだ。 「だから、いいんだ」 「よくないっ、ぼく…男だもん…」  絵本の中では、ピンク色のドレスが似合う、金色の長い髪の毛をした美しい女性だった。だから、いつか自分は、王子様の方になるのか、と違和感しかなかったけれどそう考えたことが頭をよぎった。 「男でも、お姫様になれるんだよ」  うそだ…と、唇をとがらして反論すると、彼はくす、と笑った。 「俺たちの世界では、アルファとオメガだったら、男同士でも結婚できるんだ」 「ある…おめ…?」  聞いたことあるような言葉だったが、理解はできずに、首をかしげた。 「そう。俺がアルファで、聖はオメガ」 「さくが、アルファで…僕が、オメガ…?」  そうだ、と彼はうなずいた。よくわらかずに頭がぐるぐるしている。 「まだ判定はでないけど、絶対そう」 「どうしてわかるの…?」  あまりにも自信満々に彼が言い放つので、単純な疑問として聞いてみると、彼は声をだして笑った。 「だって、俺たち、運命だから」 「うんめい?」 「そう、運命の番は、一瞬でわかるんだ」  嬉しそうに彼は笑いながら、僕の濡れた頬を撫でた。すっかり涙は、ひっこんでいた。でも、彼は何度も涙を拭うように、優しく頬を撫でてきた。 「僕たち、運命なの…?」  なんだか、すごく特別な関係なのだということはわかった。大好きな彼と、僕が特別なのだと思うと、身体がぽかぽかと温かくなってくる。  そんな僕の様子を見て、彼は優しく笑いながら、うなずく。 「だから、聖は俺のお姫さまで、俺は聖の王子様なの」 「そっか…」  嬉しい?と尋ねられて、へへ、と照れ笑いをしながら、うなずいた。じわじわと、心がいっぱいになっていくのがわかる。彼の手を、ぎゅ、と握ってみると、さらに強い力で返される。 「だから、誓いのキス、しよ」 「きす…?」  彼は物知りだった。体格も同い年の僕なんかよりも立派だった。運動も勉強も、なんだって、彼は一番だった。僕の知らないことをたくさん知っていて、いつも優しく教えてくれた。 「大切なこと。俺と聖が、ずっと一緒にいようっていう約束」  温かい吐息を感じる距離で、彼がまなじりを染めながら、俺に囁く。じ、と見つめてくる視線は焦げてしまいそうなほど熱い。 「僕…、さくと、ずっと一緒にいたい…」 「聖…」  俺もだ、と彼はとろける笑みを見せて、低く囁いた。 「きす、して…」  一生、離さない…。  そうつぶやいた彼の声は、僕の唇に吸い込まれていってしまったようだった。  それが、僕と彼しか知らない、マゼンダに包まれながらの、秘密。  たった、五歳の時の話。僕の、花蜜味の甘い、ファーストキスの話。
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